生と死をどのように幻想として描写できるでしょうか?
私たちは毎日多くの生き物が生まれ、死んでいくのを目にします。死をどのように定義できるでしょうか?それは毎回起こることなのでしょうか?私たちは何度死を経験してきたのでしょうか?前回の「デスラボ」で、「生と死の学校」プロジェクトのためにこれらのトピックについて考えました。古代インドの知恵の文献であるバガヴァッド・ギーターから、非常に興味深い概念に出会いました。そこでは、死は体の変化としても描写されています。基本的に、私たちの生と死の認識は、それを理解しようとする次元に関連しています。
適切な視点を設定すると、これをうまく理解することができます。実際、私たちは化学物質でできたこの体の中にいる魂なのです。私たちは子供時代から少年期、成人期、老年期へと常に体を変化させています。子供の体にいた時のことを覚えており、子供時代の写真を見ると、その体と自分を同一視できます。しかし、現在の体は全く異なります。これは、子供時代の体が死に、現在は大人の異なる体にいるからです。この体は常に変化しており、その変化は非常に速いため、簡単には経験できません。しかし、時間が経つにつれて、目に見える違いが大きくなると、その実感が得られます。現在、私たちは常に死と誕生を経験しています。大まかに見ると、少なくとも子供時代から少年期、少年期から成人期、成人期から老年期へと体を変えてきました。
12月はギーター・ジャヤンティの月とも呼ばれています。5000年前のこの月に、クリシュナがアルジュナにこの自己実現の科学であるバガヴァッド・ギーターを教えたからです。バガヴァッド・ギーターには、人生の最も深い好奇心に対する完璧な答えがいくつかあり、それゆえに様々な偉大な指導者、学者、哲学者、芸術家、科学者、思想家などから求められています。これらの素晴らしいアイデアの元となった、バガヴァッド・ギーターの素晴らしい抜粋をいくつか見てみましょう。
BG 2.13
訳 肉体をまとった魂が、体のなかを、少年から⻘年、老年へと絶え間なく移り変わ るように、魂も同じように死ぬときに別の体に入っていく。冷静な人物は、そのような 変化に惑わされない。
BG 2第20節
魂は、いつなんどきでも、生まれも死にもしない。過去に存在しはじめたわけで はなく、今存在するようになったわけではなく、未来に存在するようになるわけでもな い。生まれることなく、永遠で、つねに存在し、はるか昔から存在している。肉体が殺 されても、魂は殺されない。
要旨解説 「質」から見ると、至高の魂の小さな断片部分は至高者と同じです。魂は肉 体が辿るような変化を経験しません。Küöa-stha(クータ・スタハ)「不変」と呼ばれることも あります。いっぽう、肉体は6つの変化を通過しなくてはなりません。母親の胎内から誕生し、しばらくその状態を維持し、成⻑し、何かの結果を生じさせ、やがて縮小し、最後に忘 却の世界に戻っていきます。しかし、魂はそのような変化の影響を受けません。生まれるこ とはありませんが、物質の体をまとうため、その体が誕生するだけのことです。魂はその肉 体のなかに誕生するのではなく、また死にもしません。誕生したものは必ず死にます。また 魂には誕生がないため、過去・現在・未来も関係ありません。魂は未来永劫にわたって存在 し、そして太古の存在です。それは、魂が歴史上のある時期から存在するようになったわけ ではない、ということを表わしています。私たちは、肉体という固定観念にもとづいて魂の 誕生の歴史を探そうとしています。肉体は老化しますが、魂は年をとりません。だから老人 になっても、幼かったころや若かったころと同じ心や意識を感じているのです。肉体の変化 は魂にまったく影響を及ぼしません。魂は、たとえば木のような物質の体とは違い、劣化し ません。なにかを派生させることもありません。肉体の副産物、すなわち子どもも個別的な 魂です。肉体に結びつけて考えてしまうため、ある人の子ども、という見方をします。体は 魂がいるからこそ成⻑しますが、魂そのものはなにかに派生することも変化することもしま せん。ですから、魂は肉体の6つの変化とは無縁な存在なのです。
『カタ・ウパニシャッド』(第1編・第2章・第18節)にも、同じような言葉が見つかり ます。
na jāyate mriyate vā vipaścin nāyaṁ kutaścin na vibhūva kaścit
ajo nityaḥ śāśvato ‘yaṁ purāṇo na hanyate hanyamāne śarīre. (Kaṭha 1.2.18)
この節の意味は『バガヴァッド・ギーター』のものと同じですが、1つ、特別の言葉が使 われています。それがvipaçcit(ヴィパシュチトゥ)で、博学な、あるいは知識をそなえた、 という意味です。
魂は知識にあふれている、すなわちつねに意識をそなえています。ですから、意識が魂の 存在の証しです。自分の心臓に位置している魂が理解できないとしても、意識が存在してい るのですから、魂が存在していることもわかるはずです。空に雲が広がっているために(あ るいは別の理由で)太陽が見えなくても、その明かりが感じられるから、「今は昼」と判断 できます。夜が明ける前、空にかすかに光が広がっているだけで、太陽が昇りかけているこ とがわかります。同じように、ある意識が体全体に広がっているのですから(人間であろう と動物であろうと)、魂がいると判断できます。しかしこの魂の意識は、至高者の意識と同 じではありません。至高の魂はすべてを――過去も現在も未来も――すべて知っているから です。個々の魂は物忘れをします。自分本来の質を忘れてしまえば、クリシュナから優れた 教えを授かって、啓発されなくてはなりません。しかしクリシュナは違います。もしクリシュナが、すべてを忘れてしまうふつうの魂と同じだとしたら、『バガヴァッド・ギーター』 にある教えはまったく無意味なものになってしまいます。
2種類の魂、すなわち極小の部分的魂(anu-ätmä・アヌ・アートゥマー)と至高の魂 (vibhu-ätmä・ヴィブフ・アートゥマー)がいます。このことも『カタ・ウパニシャッド』 (第1編・第2章・第20節)で明言されています。
aṇor aṇīyān mahato mahīyān ātmāsya jantor nihito guhāyām
tam akratuḥ paśyati vīta-śoko dhātuḥ prasādān mahimānam ātmanaḥ
「至高の魂・パラマートマーと原子大の魂・ジーヴァートゥマーはどちらも、生命体の肉 体という同じ木、同じ心臓の中に住んでいるが、物質的な嘆きや望みから解放された者だけ が、至高者の恩恵を授かり、魂の栄光を理解する」。クリシュナは、後の章で述べられるよ うに至高の魂の源でもあり、いっぽうアルジュナは原子ほど小さな魂で、自分本来の気質を 忘れています。だからこそ、クリシュナから、あるいはクリシュナの本物の代表者(精神指 導者)から知識を授かる必要があるのです。