舌を支配して最も偉大なヨーギーになる|prasādaはKṛṣṇaと同じくらい良い
Ambarīṣa Mahārājaがしたように:vacāṁsi vaikuṇṭha-guṇānuvarṇane [SB 9.4.18]。もし私が話すなら、私はKṛṣṇaについてだけ話します、それ以上は話さない。。皆さんの舌は[。。]です。もし皆さんがこのように決めたなら、「クリシュナのこと以外のことは話さない、クリシュナに捧げられないものは食べない」皆さんはすべての感覚をコントロールできるようになります、 第一級のヨーギーになるのです。
しかし、もし私が「私はこの身体だ。身体とは感覚である。自分の感覚を楽しもう」と思ったら、私は迷ってしまう。私という霊魂は、この寝ているの状態、幻想、時には白昼夢、時には夜の夢の中にいますが、私はそこにいます。私がそこにいるから、私は白昼夢や夜の夢を見ている。
私がそこにいなければ、誰がこの白昼夢や夜の夢を見ているのだろうか?だから私はそこにいるのだが、私は夢の国にいる。ですから、この夢の国から抜け出し、現実の生活に戻るためには、クリシュナ意識を身につけなければなりません。そうすれば、すべてがうまくいきます。
引用:シュリーラ・プラブパーダによる講座 12月29日1972年, バガヴァッド・ギーター(第13章・第1-2節)
prasādamを食べるべきです。
kṛṣṇa baro doyāmoy, koribāre jihwā jay,
swa-prasād-anna dilo bhāi sei annāmṛta pāo,
rādhā-kṛṣṇa-guṇa gāo,
preme ḍāko caitanya-nitāi
Kṛṣṇa baṛo doyā… 舌は最大の敵です。Tā ‘ra madhye jihwā ati, lobhamoy sudurmati.舌は最大の敵です、そして舌をコントロールすることができれば、すべての感覚をコントロールことができます。そうでなければ、舌が 「こういう食べ物をくれ、こういう食べ物をくれ 」と要求します。もし寺院でprasādamを頂かなければ、私たちの舌が命じるでしょう、 「さあ、おいしい食べ物を用意してください。それをいただきましょう」。それでは、私たちのKṛṣṇa意識の役には立ちません。どのようなものであれ、 Kṛṣṇa…, kṛṣṇa baṛo doyāmoy, koribāre jihwā jay. Kṛṣṇa-prasādaは舌をコントロールすることを意味します。私たちの主な敵は舌です。
別の箇所ではこうも言われています、sevonmukhe hi jihvādau svayam eva sphuraty adaḥ [Brs. 1.2.234] =「神の悟りは、舌を主の奉仕に従事させ続けることによって可能になる。」Sevonmukhe hi jihvādau.手や足ではなく、まず舌を働かせなくてはならなりません。「私はKṛṣṇaに仕えなければなりません。だから、準備はできている。手を広げます。私はそこに行きます」。しかし、śāstraは言う、「いいえ、いいえ、いいえ。手や足ではなく、舌です。これです。まず舌で仕えなさい。」これは驚きです。「どうすれば舌で奉仕できるのか?もし奉仕しなければならないなら、私には手も足もあるし、目もある。」違います。Śāstraは舌と述べています。これは非常に奇妙なことです。Sevonmukhe hi jihvādau svayam eva sphuraty adaḥ. 舌を動かせば… では、どうすれば舌を動かすことができるのか?舌のすることとは何でしょう?舌のすることは2つだけ、味わうこと又は食べること、そして唱えることです。舌でHare Kṛṣṇaを唱え、kṛṣṇa-prasādamを食べなさい。これが方法です。Sevonmukhe hi jihvādau. ですから、もしあなたが舌をコントロールできず、prasādamを食べることに不便を感じるなら、それはあなたが進歩していないことを意味します。これは… sevonmukhe hi jihvādau svayam eva sphuraty adaḥ.
誰でもprasādamを食べるべきです。Jagannātha Purīに行けば見ます、 そこに行く部外者であっても料理はしません。厳密には料理はしないです。彼らはprasādamを買います。そこに行けば 、千人、巡礼者なのでが来られます、それでもJagannātha Purīで市場で買ったprasādamがすぐに手に入ります。そして、感染というものは存在しないのです。「私はあなたのprasādamの残りを取る。あなたが残したものは何でも… あの人は取っているのです。」たとえあなたがカーストから外れていても、brāhmaṇaでなくても。なぜならprasādaは超越的なものだからです。それは物質的なものではありません。ですから、prasādaは物質的なものではないという信仰を持たなければなりません。prasādaは物質的なものではありません。どんな物質的なものにも感染することはないでです。prasādaはこのように頂くべきです。これはprasāda-sevāと呼ばれ、「 prasāda享受 」とは呼ばれません。sevāとは奉仕をすることです。 prasādaはKṛṣṇaと同じくらい良いものですから、prasādaはKṛṣṇaと同じくらい尊敬されるべきです。prasādaを手に入れ・もらったら、すぐに頭に触れるのです、なぜならそれは絶対的でKṛṣṇaです。このように、śāstrasに規定されているように、私たちは訓練されなければなりません。
ですから、Kṛṣṇa意識運動に熱心な人、奉仕に熱心な人は、一流のprasādam、prasādamを食べるべきです。誰もがprasādamの味が好きです。私はよく世帯生活の中で、お寺にprasādamを食べに行き、お布施を払っていました。そうしていました。そして私はよく… 特にŚrī Rāmapurには2つの寺院があり、ひとつはJagannātha、もうひとつはRādhā-Vallabhajīの寺院です。だからとても良かったです。日曜日にはよくprasādamを頂くために行きました。だから、できるだけprasādamを食べる習慣を身につけるべきです。食べられないよほどの病気でない限り、それは違いますが。そうでなければ食べるべきです。Sevonmukhe hi jihvādau [Brs. 1.2.234]。そうすれば、私たちはKṛṣṇaを思い出すでしょう。そうすれば、私たちは健康になり、物質的な悲惨な状態のあらゆる感染から免れるでしょう。
引用:シュリーラ・プラブパーダによる講座 7月9日1974年 Śrīmad-Bhāgavatam 6.1.18