三位一体 – ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ – 彼らは何者か?認可された聖典によると、彼らの任務と地位は何ですか?
三位一体 – ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ – 彼らは何者か?権威ある聖典によると、彼らの役割や立場は何であろうか?
ガンガーがすべての川の中で最も偉大であり、アキュータ神(ヴィシュヌ神)が神々の中で最も偉大であり、サンブ神(シヴァ神)がヴィシュヌ神の帰依者の中で最も偉大であるように、「『シュリーマド・バーガヴァタム 』はプラーナの中で至高である」(『シュリーマド・バーガヴァタム 』12.13.16)。この経典の言葉や類似の経典が示す通り、シヴァ神は確かに最も偉大な神、少なくともシヴァ神の献身者の間では最も偉大な神と見なされるかもしれませんが、神々の間では至高はヴィシュヌ神なのです。このことは、遥か昔の『リグ・ヴェーダ 』(1.22.20)で明らかにされています。「ヴィシュヌの蓮華の足は、すべての半神の最高の目的である。ヴィシュヌの蓮華の足は、空の燦燦と輝く太陽のように全宇宙を照らしている。」
Srimad Bhagavatam 1.2.23 Sloka and Purport
超越的な人格主神は、物質自然の三様式、すなわち激情・徳性・無知と間接的にかかわって おり、物質界の創造・維持・破壊のためだけにブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという3種類34の質的姿を装う。人類は、これらの姿のなかで徳性の姿であるヴィシュヌから究極の恩恵を受 けることができる。
要旨解説
この節では、主の完全分身を媒体としてシュリー・クリシュナに奉仕を捧げなくてはならな いことが明言されています。主シュリー・クリシュナとその完全分身はすべてヴィシュヌ・タ ットヴァ(Vishnu-tattva)、神そのものです。シュリー・クリシュナの次の拡張体はバラデー ヴァです。バラデーヴァからサンカルシャナ、サンカルシャナからナーラーヤナ、ナーラーヤ ナから 2番目のサンカルシャナ、そしてこのサンカルシャナからヴィシュヌのプルシャ・アヴ ァターラ(Purusha-avatära)が現われます。ヴィシュヌ、すなわち物質界の徳性の主宰神は、 クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌ(Karnodakshayi Vishnu)あるいはパラマートマーと も呼ばれるプルシャ・アヴァターラです。ブラフマーはラジャス・激情、シヴァは無知の主宰 神です。この三人の主宰神は物質界の三様式の筆頭者です。創造はヴィシュヌの徳性によって 為され、破壊される必要があるときに主シヴァがターンダヴァ・ヌリテャ(Tandava-nritya) で宇宙を破壊します。物質主義者や愚かな人間はブラフマーやシヴァを崇拝します。しかし純 粋な超越主義者は、徳性の、またさまざまな姿を持つヴィシュヌを崇拝します。ヴィシュヌは 何億何兆もの総体的な姿、そして分離した姿をとおして現われます。統合された姿は主神、分 離した姿は生命体・ジーヴァ(jéva)と呼ばれています。ジーヴァも主神も本来の姿を持って います。ジーヴァは物質エネルギーに支配されることがありますが、ヴィシュヌはいつでも物 質エネルギーを支配する側にいます。ヴィシュヌ・人格主神は、物質エネルギーに惑わされて いる生命体を救うために物質界に降誕します。そのような生命体は、主人になるつもりで物質 界に現われ、自然の三様式の罠に陥ります。そのため、生命体は物質に覆われてさまざまな拘 束を受けなくてはなりません。物質界という牢獄は、人格主神の教えに従うブラフマーによっ て作られ、カルパ(kalpa)の終わりにシヴァによってすべて破壊されます。しかし、牢獄の維 持はヴィシュヌが司り、これは国が刑務所を管理している状況と同じです。ですから、誕生・ 死・病気・老年が繰りかえされる物質存在という悲惨な牢獄を出たいのであれば、解放を求め て主ヴィシュヌを喜ばせなくてはなりません。主ヴィシュヌを崇拝する方法は献愛奉仕だけで すが、物質界で投獄生活を続けなくてはならない人は、シヴァ、ブラフマー、インドラ、ヴァ ルナなど、一時的な救いを提供する相対的な便宜をさまざまな半神に求める必要があります。 しかしどのような半神であっても、投獄された生命体を物質界の条件づけられた生活から救うことはできません。ヴィシュヌだけができることです。ですから、究極の恩恵はヴィシュヌ、 人格主神から授けられるものなのです。
SB 2.7.39
sarge tapo ‘ham ṛṣayo nava ye prajeśāḥ sthāne ‘tha dharma-makha-manv-amarāvanīśāḥ
ante tv adharma-hara-manyu-vaśāsurādyā māyā-vibhūtaya imāḥ puru-śakti-bhājaḥ
創造の初めには、懺悔、私(ブラフマー)、創造する偉大な賢者であるプラジャーパティがおり、創造の維持の間には、ヴィシュヌ神、支配力を持つ半神たち、さまざまな惑星の王たちがいます。しかし、最後には無宗教があり、シヴァ神と怒りに満ちた無神論者などがいます。それらすべては、至高の力である主のエネルギーの異なる代表的な現れなのです。
要訳
物質界は主のエネルギーによって創造され、それは天地創造の最初の生きとし生けるものであるブラフマーイーの苦行によって天地創造の初めに現れ、その後、偉大な賢者として知られる9人のプラジャーパティが存在します。天地創造が維持される段階では、ヴィシュヌ神への献身的な奉仕、すなわち事実上の宗教、さまざまな半神、そして世界を維持するさまざまな惑星の王たちがいます。最後に、天地創造が終わりを告げようとするとき、まず無宗教の原理があり、次にシヴァ神が怒りに満ちた無神論者たちとともに現れます。しかし、それらすべては至高神の異なる顕現に過ぎません。ですから、ブラフマー、ヴィーシュナ、マハーデーヴァ(シヴァ)は、物質自然のさまざまなモードのさまざまな化身なのです。ヴィシュヌは善のモードの主です。ブラフマーは情熱のモードの主であり、シヴァは無知のモードの主です。最終的に、物質的な創造は、物質界にとらわれた条件付きの魂に解脱のチャンスを与えるための一時的な顕現に過ぎません。ヴィシュヌ神の保護の下で、善のモードを開発する人は、ヴァイヴァの原則に従うことによって解脱する最大のチャンスがあり、神の王国に昇格し、もうこの悲惨な物質界に戻る必要はありません。
シーラ プラブパダはこう言っています(スリマド バガヴァタム 3.9.16、訳注)、
「物質自然の3つのモードを制御する3つの主要なエージェントのうち、ヴィシュヌは全能であり、彼は維持の目的のために物質自然の中にあるにもかかわらず、彼は物質自然の法則によって制御されません。他の二人、ブラフマーとシヴァは、ヴィシュヌと同じくらい大きな力を持っていますが、至高神の物質的エネルギーの支配下にあります。”
SB 3.9.16
yo vā ahaṁ ca giriśaś ca vibhuḥ svayaṁ ca sthity-udbhava-pralaya-hetava ātma-mūlam
bhittvā tri-pād vavṛdha eka uru-prarohas tasmai namo bhagavate bhuvana-drumāya
閣下、あなたこそが惑星系の「樹」の最も主要な根源です。この樹は、創造、維持、破壊の働きを行う私ブラフマー、シヴァ、そして全能者であるあなたの3本の幹によって、最初に物質自然に浸透して成長してきました。私たち3人は多くの枝を伸ばして成長してきました。それゆえ、私は宇宙顕現の樹であるあなたに敬意を捧げます。
趣旨
宇宙顕現は、上位惑星系、下位惑星系、中位惑星系という3つの世界に大別され、その後、至高の根源である至高人格神の顕現により、14の惑星系からなる宇宙へと広がっていきます。物質的自然は、宇宙顕現の原因のように思われますが、主の代理人やエネルギーに過ぎません。これはバガヴァッドギーターの第9章10節で次のように確認されています。mayādhyakṣeṇa prakṛtiḥ sūyate sa-carācaram. 「至高の主の監督下においてのみ、物質自然はすべての創造、維持、破戒の原因として現れる。」主は、維持、創造、破壊というそれぞれの目的のために、ヴィシュヌ、ブラフマー、シヴァの三神に自らを拡張します。この三人の主要な「代理人」が物質自然の三様式を支配してますが、そのうちのひとりであるVishnuは全能なのです。
ヴィシュヌは維持する目的で物質自然の中におられるとはいえ、物質自然の法則に支配されることはありません。他の二神、ブラフマーとシヴァは、ヴィシュヌと同じくらい大きな力を持っていますが、至高神の物質的エネルギーの支配下にあります。「物質自然の多くの部門を支配する多くの神々」という概念は、愚かな汎神論者たちの間違った構想に過ぎません。神は唯一無二の存在であり、すべての原因の原初的な原因です。政府業務に多くの部門長がいるように、宇宙業務の管理においても多くの部門長がいるのです。
知識の乏しさゆえに、非人格主義者は人格を持った神が万物をあるがままに管理していることを信じてはいないのです。しかし、この節では、全ては人格がある神がつくったものであり、神がつくっていない非人格的なものは存在しないと明確に説明されています。バガヴァッドギーター第十五章では、物質顕現の木は、天上に根を持つ聖樹アシュヴァッタであると説明されています。貯水池のほとりに木の影が見えるとき、私たちはそのような木の姿を実際に体験します。水面に映る木は、上向きの根から垂れ下がっているように見えるからです。
ここで説明されている創造の木は、パラブラフマン、つまりヴィシュヌである真実の影に過ぎません。ヴァイクタローカの潜在的な内的顕現の中に、その聖樹が実在し、物質自然に反映された木は、この聖樹の影に過ぎません。バガヴァッドギーターに描かれている木の影は、実在の木の反映でなければ存在し得ないので、ブラフマンはあらゆる多様性を持たないという非人格主義者の説は誤りです。本当の木は、超越的な変化に満ちた精神世界の永遠の存在の中にあり、ヴィシュヌ神がその木の根でもあります。本当の木も偽りの木も根は同じ主ですが、偽りの木は本当の木の倒錯した反映にすぎません。主は本物の木であり、ここではブラフマーが自分のために、またシヴァ神のために敬意を表しています。
主ブラーマ – 主ブラーマの立場とクリシュナについての意見
クリシュナについての主ブラーマの意見
īśvaraḥ paramaḥ kṛṣṇaḥ Sac-cid-ānanda-vigrahaḥ
anādir ādir govindaḥ sarva-kāraṇa-kāraṇam
ゴーヴィンダとして知られるクリシュナは、至高主です。主は永遠の至福に満ちた精神的なお体を持ち、あらゆるものの根源でいらっしゃます。
advaitam acyutam anādim ananta-rūpam ādyaṁ purāṇa-puruṣaṁ nava-yauvanaṁ ca
vedeṣu durlabham adurlabham ātma-bhaktau govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
私は原始の主ゴーヴィンダを崇拝いたします。主はヴェーダでは到達できませんが、純粋で穢れない魂の献身によって得ることのできるお方です。唯一無二のお方であり、朽ちることもなければ始まることもなく、そのお姿は無限であり、そのお方こそが始まりであり、永遠なるプルシャです。それでいて、主は咲き誇る若さの美しさを秘めたお方なのです。
eko ’py asau racayituṁ jagad-aṇḍa-koṭiṁ yac-chaktir asti jagad-aṇḍa-cayā yad-antaḥ
Aṇḍāntara-stha-paramāṇu-cayāntara-stham- govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
主は、そのお力と所有者であることの間に区別がないため、違いのない存在でいらっしゃいます。何
百万もの世界を創造なさる主の働きにおいて、主のお力は切り離せないものであり続けます。すべての宇
宙は主の中に存在し、同時に主は宇宙に散らばる原子ひとつひとつの中にも存在なさいます。
そのような原始の主を、私は崇拝いたします。
rāmādi-mūrtiṣu kalā-niyamena tiṣṭhan nānāvatāram akarod bhuvaneṣu kintu
kṛṣṇaḥ svayaṁ samabhavat paramaḥ pumān yo govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
私は原始の主ゴーヴィンダを崇拝いたします。主は御自身をクリシュナとして、またラーマ、ヌリシンハ、ヴァーマナなど主格の部分のお姿で、様々なアヴァターラとしてお現れになりました。[5.39]
yasyaika-niśvasita-kālam athāvalambya jīvanti loma-vilajā jagad-aṇḍa-nāthāḥ
viṣṇur mahān sa iha yasya kalā-viśeṣo govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
ブラフマーも、その他の物質世界の支配者たちもマハー ・ヴィシュヌの髪の毛穴から現れ、後者(マハー ヴィシュヌ)が 1 度息を吐き出すまで生き続けます。主となる人格のマハー・ヴィシュヌが、御自身のほんの一部分の一部分でしかない原始の主ゴーヴィンダを、私は崇拝いたします。[5.48]
主ブラーマ・サムヒターについての詳しい情報はウェブサイトをご覧ください。
https://harekrishna.jp/2023/07/brahmita-samhita.html
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kṣīraṁ yathā dadhi vikāra-viśeṣa-yogāt sañjāyate na hi tataḥ pṛthag asti hetoḥ
yaḥ śambhutām api tathā samupaiti kāryād govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
牛乳は酸の作用によってカードという形に変化しますが、カードはその原因となるミルクと同じでもなければ異なるわけでもありません。それと同じように、シャンブ州は破壊の仕事を遂行するための変容です。私はその原始の主ゴーヴィンダを崇拝いたします。
クリシュナはどのように至高なのか?
Bhagvad Gita 10.8
iti matva bhajante mam budha bhava-samanvitah
な解説や愚か者の話を聞いても信念は揺るぎません。 すべてのヴェーダ経典の見解が、クリシュナこそがブラフマー、シヴァ、ほかの半神たちの 源であることで一致しています。『アタルヴァ・ヴェーダ』(『ゴーパーラ・ターパニー・ ウパニシャッド』第1章・第24節)では、yo brahmäëaà vidadhäti pürvaà yo vai vedäàç ca gäpayati sma kåñëaù「ブラフマーにヴェーダ知識を最初に説き、そして過去にヴェーダ 知識を広めたのはクリシュナである」と言われています。さらに 『ナーラーヤナ・ウパニ シャッド』(第1節)では、atha puruño ha vai näräyaëo ‘kämayata prajäù såjeyeti「最 高人格者ナーラーヤナが生命体の創造を望んだ」とあります。このウパニシャッドがさらに näräyaëäd brahmä jäyate, näräyaëäd prajäpatiù prajäyate, näräyaëäd indro jäyate, näräyaëäd añöau vasavo jäyante, näräyaëäd ekädaça rudrä jäyante, näräyaëäd dvädaçädityäù「ナーラーヤナからブラフマーが生まれ、ナーラーヤナから⻑⽼たちが生ま れた。ナーラーヤナからインドラが生まれ、ナーラーヤナから8人のヴァスが生まれ、ナー ラーヤナから11人のルドゥラが生まれ、ナーラーヤナから12人のアーディテャたちが生ま れた」とつづけます。このナーラーヤナはクリシュナの拡張体です。 同じヴェーダ(『ナーラーヤナ・ウパニシャッド』第4節)ではbrahmano devaki-putrau 「デーヴァキーの子、クリシュナは最高人格主神である」とも言われています。さらに『マ ハー・ウパニシャッド』(第1節)では、eko vai näräyaëa äsén na brahmä na éçäno näpo nägni-samau neme dyäv-äpåthivé na nakñaträëi na süryaù「創造の始めに、最高人格者ナ ーラーヤナだけがいた。ブラフマーやシヴァもおらず、水、火、月、空の星、太陽も存在し ていなかった」とあります。この『マハー・ウパニシャッド」では、主シヴァは至高主の額 から誕生した、と言われています。このように、すべてのヴェーダが、崇拝すべき対象は、 ブラフマーとシヴァの創造者である至高主である、と言っています。 『モークシャ・ダルマ』でクリシュナが言います。
SB 3.28.22
yac-chauca-niḥsṛta-sarit-pravarodakena
tīrthena mūrdhny adhikṛtena śivaḥ śivo ‘bhūt
dhyātur manaḥ-śamala-śaila-nisṛṣṭa-vajraṁ
dhyāyec ciraṁ bhagavataś caraṇāravindam
物質的な欲望のためにヴィシュヌを崇拝することもできますか?
SB 2-3-10
akāmaḥ sarva-kāmo vā
mokṣa-kāma udāra-dhīḥ
tīvreṇa bhakti-yogena
yajeta puruṣaṁ param
翻訳
広い知性を具えた者は、あらゆる物質欲に満ちていようとなかろうと、あるいは解放を望んでいようと、あらゆる手段で至高なる全体、すなわち至高人格神を崇拝しなくてはならない。
解説
至高人格神主シュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中でプルショーッタマ、すなわち至高人格神として述べられています。主の体から放出される光線であるブラフマジョーティの中でそのような熱意に没頭させて非人格主義に解放を与えることができるのは、至高主以外にはいません。輝く太陽光線が太陽の表面から独立したものではないのと同じように、ブラフマジョーティは主から分離したものではありません。ですから『シュリーマド・バーガヴァタム』のこの箇所でも勧められているように、至高の非人格的なブラフマジョーティに溶け込みたいと望む者もまた、バクティ・ヨーガによって主を崇拝しなくてはならないのです。ここでは特にバクティ・ヨーガはあらゆる完成の手段であることが強調されています。これまでの章ではバクティ・ヨーガはカルマ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガの両方の究極的目的であることが述べられ、この章では様々な神の多種多様な崇拝の究極的ゴールはバクティ・ヨーガであることが同じように強調されています。このように自己を悟る最高の手段であるバクティ・ヨーガが、ここで勧められているのです。ですから物質的享楽を熱望していようが、物質的束縛から解放されたいと望んでいようが、誰もがバクティ・ヨーガを真剣に行わなくてはなりません。
アカーマハとは物質欲のない人のことです。体の各部分や手足が自然に体全体に仕えているのと同じように、本来至高の全プルシャン・プールナンの一部分である生命体には、至高のお方に仕えるという機能が生まれつき備わっています。ゆえに、望みがないということは石のように活動をしないということではなく、自分の本当の立場を意識してただ至高主に満足して頂きたいと望むことです。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーはこの無欲のことを、自著のサンダルバの中でbhajanīya-parama-puruṣa-sukha-mātra-sva-sukhatvam と説明しています。これは、至高主の幸せを体験することによってのみ幸せを感じなさいという意味です。生命体のこの直感は物質世界での制約された段階にある時にでも現れることがあり、知性が乏しく未発達な心によって利他主義、博愛主義、社会主義、共産主義などという方法で表わされます。そのように世俗的な分野で、社会、組織、家族、国、人類などに良いことをしているように思われる見方は、純粋な生命体が至高主の幸福によって自分の幸福を感じるという本来の感情と同じものが、部分的に現れているのです。主の幸福を想うヴラジャブーミーの少女たちが、そのようなすばらしい感情を表していました。ゴーピーたちはいかなる見返りをも求めず主を愛し、これこそがアカーマハ精神の完璧な表れです。アカーマの精神が精神世界で完全に現れるのに対し、カーマ精神すなわち自分自身のための望みは物質世界の中で完全にその兆候を見せています。
物質的な苦しみから解放されたいという自分自身を満足させる望みをもっている人には、主とひとつになる、すなわちブラフマジョーティに溶け込むという思想もカーマ精神の現れかも知れません。純粋な献身者は人生の苦しみから逃れるために解放を望むことはありません。いわゆる解放さえ望まず、主の満足を熱望します。アルジュナはカーマ精神に影響されてクルクシェートラの戦場で戦うことを拒みました。自分自身の満足のために親族を救いたかったからです。しかし純粋な献身者である彼は我に返り、自分の満足に代えても主に満足していただかなくてはならないと悟って、戦えという主の教えに同意しました。こうして彼はアカーマになったのです。これが完全な生命体の完成段階です。
ウダーラ・ディーとは広い視野を持った人のことです。物質的な喜びを求める人は取るに足らない神々を崇拝し、そのような知性は『バガヴァッド・ギーター』(7-20)の中でフリタ・ジュニャーナ、すなわち感覚を失った者の知性であると非難されています。至高主が認可しなければ、いかなる神の成果も得ることはできません。したがって広い視野を持つ人には、物質的な恩恵であっても至高の権威は主であることがわかるのです。こうした状況において、たとえ物質的な喜びや解放に対する望みをもっていたとしても、広い視野を持つ者は主を直接崇拝しなくてはなりません。そしてアカーマであろうとサカーマであろうとモークシャ・カーマであろうと、誰もが・・・・・・で、主を崇拝すべきです。このことは、バクティ・ヨーガはいかなるカルマやジュニャーナも混ぜずに完全に行うものであるということを暗示しています。純粋な太陽光線はとても強力であるためティーヴラと呼ばれます。同様に、聴くこと、唱えることなどの混じり気のないバクティ・ヨーガは内なる動機がどのようなものであろうと、ひとりで、あるいはみんなで行うことができるのです。