入門。本当の入門 イスコン プラブパーダ

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  • 🌴 キルタンin湘南のご案内🌴

    2024年5月6日(月祝)湘南にてキルタン会が行われました。 ヤシの木があり、水の流れる南国ムードの会場には、多くの方が参加され、子供たちも大勢いました。 会場にはキッチンがあり、プラサーダムをヨガの先生の直々の指導のもと、作ることができました。 日本人には、初めて作る人が多かったのではないでしょうか。チャパティ作りでは、インド人のVinayakさんの実演によって、フライパンで焼いた後、火に直接、生地をのせ膨らますと言う方法を直に見ることができました。 初心者の日本人にはなかなか難しく、火加減や生地の厚さの微妙な調整を工夫しながら、ふっくらと膨らませることに成功しました。 クリシュナの祭壇には、皆さんから持ち寄られたお花や果物、手作りのブラザーダムがたくさん飾られました。与儀さんからクリシュナ用のお皿をご用意する手ほどきを受け、テーブルの真ん中には、クリシュナのお皿にすべてのプラサーダムがのせられました。 与儀さんより、プラサーダムの捧げ方のご講義をしていただき、プラサーダムの作り方は、ヨガの先生よりレシピのメモが配られ、とても親切なご説明がありました。 キールタンの演奏の前では、vinayak さん、与儀さんによる「プラフラード•マハラジャの主な教え」のご講義が行われ、プラフラード•マハラジャが自己の悟りについて、学校で教えた後、キールタンを教えていたことがご講義されました。「では、私たちもキールタンを歌いましょう!」の掛け声のもと、ムリタンガ、ハルモニウムの演奏が始まり、みんなで楽しくキールタンを歌いました。 後半では、全員総立ちで踊りキールタンになりました。皆さんとてもカルタンを叩くのがお上手でした。特に子供たちはとてもうまかったようです。会場中に快い音が響き渡りました。 おいしいプラサーダムを食べ、とても楽しい時を過ごすことができました。 どこからともなく、トゥルシーの苗を持ってくる参加者達によって、トゥルシーが配られ、もらった人は熱心に、「トゥルシーが家にあると何があるのでしょうか」などの質問や育て方の質問があり、幸せになれますよとお伝えすると、とても素敵な笑顔で喜ばれる場面もありました。 子供たちの賑やかな声やキールタンを聞きながら、ステップを踏む子供達の楽しそうな雰囲気の中、おいしいプラサーダムや講義や踊りキールタンと盛りだくさんで、キルタン会は、大成功で幕を閉じました。 当日は開催者の方々、お講師のお二人に感謝の意を表します。ありがとうございました。

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    シュリーマド・バーガヴァタム | 案内

    この『シュリーマド・バーガヴァタム』は、神の文学の化身であり、シュリーラ・ヴャーサデーヴァによって編纂された。この書物は万⺠の究極の幸福のためにあり、あらゆる⾯で成功し、あらゆる⾯で至福に満ち、あらゆる⾯で完璧である。 本当の幸福を求めるのであれば、至高主クリシュナを理解するための道を切りひらき、『シュリーマド・バーガヴァタム』のすべてのページに描写されている主の高潔な行動を理解したうえで、主を讃えなくてはなりません。

  • エカダシーについて

     エカダシーについて  エカダシーとは、第11番目の日という意味で、新月から11日目と、満月から11日目、月に2回のこの日に献身者は断食します。エカダシーの日に、すべての罪が穀物の中に入る、と言われています。  ですから、完全断食が出来ない場合は下記の食品を避けて下さい。穀物(米、麦、小麦などすべて)、豆類全般、マメ科の野菜(絹さや、スナップえんどう、豆もやし等)とこれらの物から派生するものを含んでいる食品(大豆油、豆腐、きなこ、パン、麺類、麦茶、など)も注意して避けて下さい。そして、エカダシーの翌日(デヴァダシー)のブレイク時間内に、穀物を調理したプラサーダムを食べて、ブレイクします。  主チャイタンニャは母シャチーに、エカダシーを守って下さい、と言いました。エカダシーを守らないことは、神が示した指示への違反にあたりますので、忘れずにカレンダー(下にスクロールしてください)をチェックして確認して下さい。  なお、エカダシーの日程は国や地域によって微妙にずれますので、ご注意下さい。  エカダシーは、ただ断食をするための日、ということではなく、本当の目的は、普段以上にクリシュナについて語り合ったり、唱名する時間を増やしたりして、よりクリシュナ意識を深めるための日です。  エカダシーの日に献身者はチャンティングを24周、またはそれ以上唱えることを薦められています。また、エカダシーの日には髪を剃ったり爪を切ったりすることは避けるようにと言われています。

  • Asa-Bandha – 見込みのない時でも(アサ・バンダ)

    問い:献身者はどんなに見込みのない時でも(きっと至高の人格神の恩寵を得られるという)信念を持つべきでしょうか? プラブパーダ:必ず至高の人格神の恩寵を得られるという強い信念は、サンスクリット語でアサ・バンダーといいます。 アサ・バンダーとは、「私は献身奉仕の決まった原則にできる限り従おうと努力しているので、きっと至高神のもとへ、家へ帰れるだろう」と考え続けることを意味します。 このことに関しては、ルパ・ゴスワミの祈りがこの希望を如実に示す好例です。 彼はこのように祈りました。「私にはクリシュナへの愛も、クリシュナへの愛を育む要素、すなわち『聞くことと唱えること』もありません。 そして、いつもクリシュナのことを思い、心に主の蓮の御足をしかと思い描いている、というバークティ・ヨガの在り方も私には欠けています。  哲学的な知識や敬虔な働きに関しても、私にそのようなことを実践できる機会があるようには思えません。 それに何より、私は良い家の生まれでさえありません。 したがって、私はただひたすらあなたに、ゴピジャナ・ヴァラバー(クリシュナ、ゴピを守り(to maintain)、ゴピに愛される者)に祈らねばなりません。  私はただ、なんとかしてあなたの蓮の御足に近づくことができるようにと望み、願います。 そして、この願いは私に痛みを与えています。 “なぜなら、私は自分が人生のその超越的な目標に近づくにははなはだ無力である(incompetent、無能、無資格)であると思うからです。 (この祈りの)意味は、アサ・バンダーというこの方向性(heading、見出し、方位)のもとで、人は「何とかして至高の人格神の蓮の御足に近づくことができるのだ」と、どんなに見込みが無さそうであっても望み続けるべきであるということです。 翻訳 – Yoko Nishiyama

  • クリシュナ 、喜びの宝庫 

    クリシュナ―――この音は超越的です。クリシュナ とは、最も高い喜びを意味します。私たちは皆、すべての生命体は、喜びを探し求めます。しかし、私たちはどうやって完璧に喜びを探し求めるかを知りません。人生の物質主義的な概念を持って、私たちは自分の喜び(訳注:~への渇望)を満足させることにおいて、絶えず挫折しています。なぜなら、本当の喜びを持つ水準について、何の情報も持たないからです。

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    人は非常に謙虚でなければならない

    ですから、これらの思い上がった人々はクリシュナを理解することはできません。人は非常に謙虚にならなければなりません。キリストもまた、『神の国は謙虚で柔和な者たちのためにある』と言われています。そのことは実は、、、そしてクリシュナもまた言いました、sarva-dharmān parityajya mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja (BG 18.66)。「はい、私は何も持っていません、取るに足らない者です。」これこそが、謙虚さの始まりです。Bahūnāṁ janmanām ante jñānavān mām (BG 7.19)。グル、クリシュナの前では常に取るに足らないものであり続けること、これが真の知識です。そして、それは利益なのです。誰かが「私は私のグル以上、クリシュナ以上になった」と考えるなら、その人はお終いです。ですから、人はとても謙虚で柔和になるべきです。制度上、自分がbrahmacārī, gṛhastha, vānaprastha, sannyāsaいづれに位置しているかは問題ではありません。たとえサンニャーサの階級を得た人であっても、彼は常に謙虚でいるべきです。 ですから、私たちは決して「自分はとても偉大な人物になった」と考えるべきではありません。それが私のグル・マハーラージャの教えでした。baḍa vaiṣṇavaとは「私はとても偉大なヴァイシュナヴァです。誰もが来て私の命令に従わなければなりません。」これこそが非難された立場ですね。本当の立場とは、人は非常に謙虚で柔和でなければならないということです。Jñāne prayāsam udapāsya namanta eva. Namantaとは謙虚という意味です。人は… Namanta eva san-mukhari..純粋な献愛者たちから学ぶ心構えがなければなりません。純粋な献愛者たちからの話を非常に待ち望むべきです。それと同じこと、anyābhilāṣitā-śūnyaṁ。クリシュナに仕えること以外に物質界では何の望みも持たない人こそ、純粋な献身者です。ですから、謙虚にそのような人物からの話を聞くのを切望すべきです。 (Srila Prabhupada Lecture, Mayapur, February 10, 1976)