クリシュナ 、喜びの宝庫
Krishna, the Reservoir of Pleasure – Article By Srilla Prabhupada
クリシュナ―――この音は超越的です。クリシュナとは、最も高い喜びを意味します。私たちは皆、すべての生命体は、喜びを探し求めます。しかし、私たちはどうやって完璧に喜びを探し求めるかを知りません。人生の物質主義的な概念を持って、私たちは自分の喜び(訳注:~への渇望)を満足させることにおいて、絶えず挫折しています。なぜなら、本当の喜びを持つ水準について、何の情報も持たないからです。過去2~3週間、私たちは、自分はこの体ではないということを学んできました;私たちは意識です。厳密には意識ではありません。なぜなら、意識は実際は私たちの本当の自己のしるしだからです。私たちは純粋な魂であり、今はこの物質の体と同化しています。現代の物質的な科学は、このことに全く重点を置きません。したがって、科学者たちは時として、霊魂の理解において誤って導かれます。
しかし、霊魂は誰もが意識の存在によって理解することができる事実です。どの子供も、意識は霊魂のしるしであると理解することができます。さて、私たちがバガヴァッド・ギーター(神の歌)から学ぼうとしている過程全体は、どうやって私たち自身を意識のこの水準に持ってくるかというものです。そして、もしも私たちが意識の水準から行動するなら、それなら私たちはこの身体的な概念という水準に再び押し入れられないかもしれません。そして、もしも私たちがその水準において続けることができるなら、もしも私たちが純粋な意識において活動し続けることができるなら、それならこの体の終わりに私たちは物質的な汚染から解放され、私たちの霊的な人生が蘇り、そして究極の結果は、私たちの来世において、この体を去った後で、私たちは完全な、永遠の霊的な命を得るというものです。既に論じたように、霊は永遠と描写されます。
この体の滅亡の後でさえ、意識は滅ぼされません。そうではなく、意識は別の種類の体に移され、再び私たちに生命の物質的な概念に気づかせます。それもまたバガヴァッド・ギーターにおいて描写されています。死のときに、もしも私たちの意識が純粋なら、私たちの未来は物質的ではない―――私たちの来世は霊的であることは確かです。もしも死のときに私たちの意識が純粋でないなら、それなら、この体を去ったあとで、私たちはもう一つの物質的な体を取らねばならないでしょう。それが続いている過程です。それが自然の法です。
私たちは今、最終的な体を持っています。私たちが見る体は、密度の濃い体です。それはちょうど、シャツやコートのようなものです。コートの中にシャツがあり、そしてシャツの中に体があります。同様に、純粋な魂はシャツとコートによって覆われています。衣服は心、知性、そして偽りの自我です。偽りの自我とは、私は物体である、私はこの物質世界の産物である、という思い違いを意味します。この思い違いは、私を局在化させます。例えば、私はインドで生まれたので、私は自分をインド人だと考えます。私はアメリカで生まれたので、私は自分をアメリカ人だと考えます。しかし、純粋な魂として、私はインド人でもアメリカ人でもありません。私は純粋な魂です。これらの他のものは呼称です。アメリカ人、あるいはインド人、あるいはドイツ人、あるいはイギリス人;猫や犬、あるいは蜂やコウモリ、夫や妻:これらすべては呼称です。霊的な意識において、私たちはすべてのそうした呼称から自由になります。その自由は、私たちが至高の霊、クリシュナと常に触れ合っているとき、得られます。
クリシュナ意識協会は、単に私たちがいつもクリシュナと触れ合っているようにすることを目的としています。主は全能でいらっしゃるので、クリシュナは常に私たちと共にいることがおできになります。したがって、主はご自分の言葉によって完全に私たちと触れ合っていることができます。主のお言葉と主は異なりません。それが全能性です。全能性とは、主に関連するすべてのものが同じ力を持つことを意味します。例えば、ここ物質世界においては、もしも私たちが喉が渇いて水が欲しいなら、単に「水、水、水、水」と繰り返すことは私たちの乾きを癒しません。なぜなら、この言葉は水そのものと同じ力を持たないからです。私たちは実体としての水を必要とします。そうすれば私たちの乾きは癒されます。しかし、超越的な、完全な世界にあっては、そのような違いはありません。クリシュナの名前、クリシュナの性質、クリシュナの言葉―――すべてがクリシュナであり、同じ満足を提供します。
アルジュナはクリシュナが目の前にいらしたから主と話していたのだ、しかし私の場合はクリシュナがいらっしゃらない、と論じる人々がいます。だから、どうやって私が導きを得られるだろうか?しかし、それは事実ではありません。クリシュナはご自分の言葉―――バガヴァッド・ギーターによって存在していらっしゃいます。インドでは、バガヴァッド・ギーター、あるいはシュリマッド・バーガヴァタムについて話すとき、私たちはいつも、定められたように、花、あるいは他のものを使って儀式を行います。シーク教でも、何らの神像も持たないとはいえ、彼らはグランターサヒブという本を崇拝します。おそらく、皆さんの中にはこのシーク教の社会に馴染みのある方もおいででしょう。彼らはこのグランターを崇拝します。同様に、イスラム教徒はコーランを崇拝します。同様に、キリスト教の世界では、聖書が崇拝されます。主イエス・キリストがご自分のお言葉によって存在なさるというのは事実です。クリシュナもまた、ご自分の言葉によって存在なさいます。
神あるいは神の息子であれ、超越的な世界から来るこれらの名士たちは、物質世界によって汚染されることなく、ご自分たちの超越的な自己認識をお保ちになります。それが彼らの全能性です。私たちは習慣的に神は全能であると言います。全能性とは、主がご自分の名前から、ご自分の性質から、ご自分の娯楽から、ご自分の教えから、異なっていないことを意味します。したがって、バガヴァッド・ギーターの議論は、クリシュナご自身との議論と同じほど良いのです。
クリシュナはあなたの心臓に、そして私の心臓にも座っていらっしゃいます。イーシュヴァラー・サルヴァ・ブーターナーム・フリド・デシェ・リジュナ・ティシュターティ。神はすべての者の心臓の中に位置しておいでです。神は私たちから離れていらっしゃいません。主は存在していらっしゃいます。主は非常に友好的でいらっしゃるので、私たちの繰り返す転生においても、私たちと共に留まられます。主は、私たちがいつご自分のほうを振り返るかと待っておられます。主は非常に親切なので、私たちは主を忘れるかもしれないにも関わらず、主は決して私たちを忘れません。息子は自分の父親を忘れるかもしれませんが、父親は決して自分の息子を忘れません。同様に、すべての物、すべての者、すべての生命体のもともとの父親である神は、決して私たちをお見捨てになりません。私たちは異なる体を持っているかもしれませんが、それらは私たちのシャツとコートです。それは私たちの本当の姿とは何の関係もありません。私たちの本当の姿は純粋な魂であり、そしてその純粋な魂は至高主の欠かすべからざる小片です。840万の生命の種が存在します。生物学者と人類学者でさえ、これを正確に計算することはできませんが、権威のある、明かされた聖典から、私たちはこの情報を得ます。人間はそのうちの40万種を占め、800万の他の種があります。しかしクリシュナ、至高主は、それらすべて、獣、人間、ヘビ、神、準神、半神―――何でもかんでも―――それらすべてが実際にご自分の息子であると主張なさいます。
父親は種を与え、そして母親が種を受け取ります。それから母親の体に応じて体が形作られます。そして体が完全に形作られたとき、それは出てきます―――猫から、あるいは犬から、あるいは人からであれ。それが生物の発生の過程です。父親が種を与え、そしてそれは母親の子宮の中で二種類の分泌液によって乳化され、そして最初の夜に体はちょうどエンドウマメのように形作られます。それから徐々にそれは発達します。9つの穴ができます:二つの耳、二つの目、鼻腔、口、へそ、陰茎、そして肛門です
自分の最後のカルマ、すなわち活動に応じて、人は楽しむために、あるいは苦しむために、この体を得ます。それが誕生と死の過程です。そして、この人生を終えたあと、再び人は死に、そして再びある母親の子宮に入ります。それからもう一つの種類の体が出てきます。これが輪廻転生の過程です。
私たちは、どうやってこの繰り返す誕生と死と体の交代という過程を止めることができるかということについて、非常に熱心に学ぶべきです。それが生命の人間の形の特典です。私たちは、誕生と死を通した繰り返す変化というこの過程を止めることができます。私たちは自分の本当の霊的な形を再び得て、喜びに満ちた状態、知識に満ち、そして永遠の生命になることができます。
それが進化の目的です。私たちはこれを得損なうべきではありません。解放の過程全体が、ちょうど今、私たちがこの唱えることと聞くことを始めたことで始まります。私は、この、神の聖なる御名を唱えること「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」と、ギーターの真実を聞くことは、クリシュナとの身体的な関わりと同じくらい良いのであるということを指摘したいと思います。それはギーターの中に述べられています。この過程はキールタナと呼ばれます。たとえ人が言語を理解しなくても、それでも単に聞くことによって、彼は何らかの信心を得ます。たとえ彼が理解しなくても、彼の財産は彼を敬虔な人生に導きます―――それはそのような力を持っています。
クリシュナに関して2つの話題があります。正しくは2種類の話題です。一つの話題はこのバガヴァッド・ギーターです。それはクリシュナによって話されます。そしてクリシュナに関するもう一つの話題はシュリマッド・バーガヴァタムです。それはクリシュナについて話されます。ですから2種類のクリシュナ・カター(話題)があり、どちらも同じく力があります。なぜなら、それらはクリシュナと結びついているからです。
バガヴァッド・ギーターはクルクシェトラの戦場で語られているので、一部の人々は私たちが戦場と何の関係があるのかと尋ねました。私たちはどの戦場とも何の関係もありません。私たちは霊的な領域の知識を探し求めています。それなら、なぜ私たちはこの戦場に関心を持つべきでしょうか?クリシュナが戦場にいらっしゃるので、そしてそのため、戦場全体がクリシュナ化しました。ちょうど、何かの金属に電流が流れるとき、金属全体が電力で満たされるようなものです。そのため同様に、クリシュナが何かの物体に興味を持たれるとき、その物体はクリシュナ化します。そうでないなら、クルクシェトラの戦場を論じる必要はありません。それが主の万能性です。
この万能性はシュリマッド・バーガヴァタムにおいても描写されています。多くのクリシュナ・カターが存在します。ヴェーダ文献はそれらに溢れています。ヴェーダ(複数)は、それらがクリシュナ・カターであることを意味します。ヴェーダを含め、聖典は異なっているように見えるかも知れませんが、それらはすべてクリシュナ・カターのためにあります。もしも私たちが単にクリシュナに関するこれらの話題を聞くなら、それならそれなら結果は何でしょうか?それは純粋な超越的な振動であり、そして結果は霊的な意識です。
たくさん、たくさんの誕生の間の物質的な汚染によって、私たちは心の中にたくさんの縁起の悪いものを溜め込みました。たくさん、たくさんの誕生―――この誕生だけでなく、過去の誕生もです。そのため、私たちがクリシュナ・カターをもって自分の心の中を調べるとき、そのとき私たちが溜め込んだ汚染は洗い流されます。私たちの心からすべてのゴミが洗い落とされます。そして、すべてのゴミが取り除かれれば直ちに、そのとき私たちは純粋な意識に位置します。
自分自身からすべての偽りの呼称を根こそぎにするのは非常に困難です。たとえば、私はインド人です。私はインド人ではなく純粋な魂だと直ちに考えるのはあまり簡単ではありません。同様に、これらの身体的な呼称との同一視を終わらせるのは、誰にとってもあまり簡単な仕事ではありません。しかしそれでも、もしも私たちがクリシュナ・カターを聞き続けるなら、それは非常に簡単になります。実験をしてください。どれほど簡単にあなたが自分自身をこれらすべての呼称から解放することができるかを見るために、実験をしてください。もちろん、突然、心からゴミを取り除くのは可能ではありませんが、私たちは物質自然の影響が弱まったことに直ちに気づきます。
物質自然は、3つの様式 ―――徳、熱情、無明および無明において働いています。無明は望みのない人生です。熱情は物質主義的です。熱情の相によって影響されている人は、物質存在のこの偽りの楽しみを欲します。
真実を知らないので、彼は単にこの物体を楽しむために体のエネルギーを搾り出したいと望みます。それが熱情の相と呼ばれます。無明の相の中にいる者に関して言えば、彼らは熱情も徳も持ちません。彼らは人生の最も深い暗闇の中にいます。
徳の相に位置すれば、私たちは少なくとも理論上は、私は何であるか、この世界は何であるか、神は何であるか、そして私たちの相互関係は何かということを理解することができます。これが徳の相です。
クリシュナ・カターを聞くことによって、私たちは無明と熱情の段階から自由になります。私たちは徳の相に位置するようになります。少なくとも、私たちは本当の知識―――私たちは何であるかという知識を持つようになります。無明は動物の存在のようなものです。動物の人生は苦しみに満ちていますが、動物は自分が苦しんでいることを知りません。豚を例に取りましょう。もちろん、ここニューヨーク市では豚は見られません。しかしインドの村では豚を見かけます。おお、彼の人生の何と惨めなことか。非常に汚いところに住み、糞を食べ、いつも不潔です。それでも豚は、糞を食べ、そして雌豚と絶え間ない性交をし、ただ太っていくだけで、とても幸せです。豚はそこにある楽しみの精神によって大変太ります―――しかし彼にとって、それは感覚的な楽しみです。
私たちは、誤って自分は非常に幸せであると考える豚のようであるべきではありません。昼も夜も熱心に働き、それからいくらかの性生活を持つ―――私たちはこのようにして自分は非常に幸せだと考えます。しかしこれは幸せではありません。これはバーガヴァタムにおいて豚の幸せと描写されています。人間の幸せは、彼が徳の相に位置しているときです。そのとき彼は本当の幸せは何であるかを理解することができます。
私たちの日常の仕事において、もしもこのクリシュナ・カターを聞くなら、結果は、何度も生まれ変わって溜まった、心の中のすべての汚れたものが取り除かれるというものです。事実、私たちは自分がもはや無明あるいは熱情の中におらず、そうではなく徳の相に位置しているのを見るでしょう。その立場とは何でしょうか?
私たちは自分自身が人生のすべての状況において喜びに溢れているのに気づくでしょう。私たちは決して不機嫌に感じません。バガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、これが私たちのブラーマ・ブータ(徳の最も高い段階)な状態であるということを見出します。ヴェーダは私たちに、私たちはこの物体ではない、ということを教えます。私たちはブラーマンです。アハム・ブラーマースミ。主シャンカラーチャーリャは、世界にこの福音を布教なさいました。私たちはこの物体ではありません。私たちはブラーマン、霊です。霊的な認識が実際に達成されたとき、そのとき私たちのしるしは何でしょうか?人が自分の霊的な認識に位置しているとき、そのとき彼は何の切望も何の嘆きも持たないでしょう。嘆きは失ったもののためであり、そして切望は得られないもののためです。二つの病気がこの物質世界を特徴づけます。持っていないものを私たちは切望します。「もしもこれらのものを得たら、私は幸せになるだろう。私はお金を持っていないが、もしも100万ドル得れば、そうすれば私は幸せになるだろう。」そして私たちが100万ドルを持っているとき、どういうわけかそれは失われるでしょう。そのため私たちは泣きます。「おお、私はそれを失ってしまった!」私たちが収入を求めるとき、それは一種の苦しみです。そして私たちが損失に苦しむとき、それも苦しみです。しかし、もしもわたしたちがブラーマ・ブータに位置しているなら、私たちは苦しむことも切望することもありません。私たちはすべての人とすべてのものを平等に見るでしょう。たとえ燃え盛る炎のような動乱のなかにあっても、私たちは心を乱されないでしょう。それが徳の相です。
バーガヴァタムは神の科学を意味します。もしも神の科学が固守されるなら、私たちはブラーマ・ブータの状態に位置するでしょう。ブラーマ・ブータの状態から、私たちは働かねばなりません。なぜなら、ここで仕事が勧められているからです。この物質の体を持っている限り、私たちは働かねばなりません。私たちは働くことを止めることはできません。それは可能ではありません。しかし私たちはヨガの方策を取り入れなければならず、そしてこのようにして、たとえ運命あるいは状況によって私たちに強いられた何らかの普通の仕事をすることによっても、害はありません。たとえば、自分の仕事において、嘘を言わなければビジネスが続かないと仮定しましょう。嘘をつくのはあまり良いことではありません。そのため人は、そのビジネスはあまり道徳的な原則に基づいておらず、したがって自分はそれを放棄すべきだと結論します。しかしバガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、放棄すべきではないという教えを見出します。たとえ私たちが何らかの不公正な実践なくしては自分の生計が続かないような状況に入れられたとしても、私たちはそれを放棄すべきではありません。しかし、私たちはそれを浄化しようとすべきです。それはどのように浄化されるでしょうか?私たちは仕事の結果を取るべきではありません。それは神のためのものです。
スクリタは敬虔な活動を意味します。そしてドゥシクリタは不敬虔な活動を意味します。物質的な水準において、私たちは敬虔、あるいは不敬虔であることができます。私たちは、何らかの敬虔な活動を行っているか、あるいは何らかの不敬虔な活動を行っているか―――あるいは私たちは敬虔と不敬虔の混じったものを持っています。主クリシュナは、私たちは至高存在に関する知識、あるいは至高存在への献身の念を持って活動すべきであると助言なさいます。その知識とは何を意味するのでしょうか?それは、私は至高の意識の欠かすべからざる小片である、あるいは私はこの体ではない、ということを意味します。もしも私が自分をアメリカ人として、インド人として、あるいはこれやあれと考えるなら、それなら私は物質的な水準にいます。私たちは自分をアメリカ人としてでもインド人としてでもなく、純粋な意識と考えるべきです。私は至高の意識の従属的な意識です。言い換えれば、私は神の従者です。神は至高の意識であり、そして私は主の従者です。そのため、私たちの現在の理解にとっては、従属的とは従者を意味します。
私たちは普通は神との関係において従者としての仕事を行いません。誰も従者でありたいと願わず、そうではなく誰もが主人でありたがります。なぜなら、従者であることはあまり心地よいことではないからです。しかし、神の従者になることはこのようなものではありません。時として、神の従者は神の主人になります。生命体の本当の立場は神の従者であることですが、バガヴァッド・ギーターにおいて私たちは主人、クリシュナが、アルジュナの従者になったのを見ることができます。アルジュナは戦車に座っていて、そしてクリシュナは彼の運転手です。アルジュナは戦車の持ち主ではありませんが、霊的な関係においては、私たちは物質的な関係という概念に執着すべきではありません。ちょうどこの世界において私たちがその経験を持っているように、関係全体は霊的な世界に存在しますが、その関係は物体によって汚染されていません。したがって、それは純粋で超越的です。それは異なる性質を持っています。生命の霊的な概念において発達するにつれて、私たちは霊的な、超越的な世界における本当の立場は何であるかを理解することができます。
ここで主は私たちにブッディー・ヨガについてお教えになります。ブッディー・ヨガは、私たちが自分はこの体ではないという完全な意識を持つことを意味します。そして、もしも私がこの理解をもって活動するなら、それなら私は体ではありません―――私は意識です。それは事実です。さて、もしも私たちが意識の水準において活動するなら、それなら私たちは良い仕事あるいは悪い仕事の結果を乗り越えることができます。それは超越的な段階です。
それは私たちが別の誰かのために―――至高存在のために活動していることを意味します。私たちは損失あるいは利益に責任がありません。利益があるとき、私たちは思い上がるべきではありません。私たちは「この利益は主のためだ」と考えるべきです。そして損失があるとき、私たちはこれは自分の責任ではないことを知るべきです。それは神の仕事―――主のです。そうすれば私たちは幸せになります。これを私たちは実践しなければなりません:すべてを至高存在のために。この超越的な性質を私たちは育まねばなりません。これが、これらの現在の状況の下で仕事を行う秘訣です。身体的な意識の水準において働けば直ちに、私たちは自分の仕事の反応によって縛られるようになります。しかし、霊的な意識を通して働くとき、私たちは敬虔な活動によっても、悪い活動によっても縛られません。それが技法です。
マニーシナー―――、この言葉は大変重要です。マニーシンは思慮深いことを意味します。思慮深くない限り、人は自分がこの体ではないと理解することができません。しかし、もしも人が少し思慮深いなら、彼は「おお、私はこの体ではない。私は意識だ」と理解することができます。時として、暇なときに、私たちは「おお、これは私の指で、これは私の手だ。これは私の耳で、これは私の鼻だ。すべて私のものだが、私は何か、私は何か?」と見ることができます。私はこれを私のものだと、そして私がいると感じています。単に少しの思考が必要とされます。すべてのものが私のものです―――私の目、私の指、私の手。私の、私の、私の、そしてその私とは何でしょうか?その私とは、そこで私が「これは私のものだ」と考えている、その意識です。

さて、もしも私がこの体でないなら、それならなぜ私はこの体のために活動すべきでしょうか?私は私自身のために活動すべきです。それでは、私はどうやって自分自身のために活動することができるでしょうか?私の立場は何でしょうか?私は意識です。しかし、どんな種類の意識でしょうか?従属的な意識―――私は至高の意識の一部です。それでは、私の活動とは何になるでしょうか?私の活動は至高の意識の導きの下になります。ちょうど、事務所において、管理者が至高の意識であるようにです。たとえば、事務所では誰もが管理者の指示の下で働いています。したがって、彼らは責任を持ちません。彼らは自分の義務を果たさねばならないだけです。敬虔な義務であれ不敬虔な義務であれ―――気にしてはいけません。軍隊でも、隊長あるいは司令官の命令があります。兵士はそれを遂行しなければなりません。彼はそれが敬虔であるか不敬虔であるかを考慮しません。それは関係ありません。彼は単に活動しなければなりません。そのとき彼は本当の兵士です。彼はそのように行動し、そして彼は褒美を得ます。彼は称号と栄誉を得ます。彼は気にしません。司令官が「ただ、行って敵を殺しなさい」と言い、彼は褒美を得ます。殺すことによって人が褒美を得ると思いますか?いいえ―――それは遂行された義務に対してです。
同様に、ここで状況はクリシュナがアルジュナに教えているというものです。クリシュナは至高の意識です。私は意識、至高の意識の欠かすべからざる小片です。そのため私の義務は、その至高の意識に応じて活動するというものです。例えば、私は自分の手を自分の体の一部だと考えます。今、それは独自に動いています。「私が望むように手を動かそう、脚を動かそう。目を開けて見よう。」ですから、私が命令していて、そしてこれらの部分が働いています。同様に、私たちは皆、至高存在の欠かすべからざる小片です。私たちが自分を至高の意識に従って活動するように訓練するとき、そのとき私たちはこれらすべての敬虔あるいは不敬虔な活動を超越するようになります。それが技法です。この技法の結果は何でしょうか?私たちは誕生と死の呪縛から自由になります。もはや誕生と死はありません。
現代の科学者と哲学者は、誕生、死、病、そして老いというこれらの4つのことについて考えません。彼らはそれらを脇に置きます。「おお、幸せになりましょう。この人生を楽しみましょう。」しかし、人間の人生はこの誕生、死、病および老いという呪縛への解決策を見つけるためにあります。もしも、どの文明であってもこれらの4つの問題への解決策を見つけていないなら、それならそれは人間の文明ではありません。人間の文明は、これらのことに完全な解決策を見つけるためにあります。
さて、ここでバガヴァッド・ギーターの中で主はカルマ・ジャム・ブッディーユクターとおっしゃいます。カルマ・ジャムは、行為があるときはいつでも何らかの反応があるということを意味します。もしも人が悪において振舞うなら、悪い反応があるでしょう。しかし、良いものであれ悪いものであれ、反応は、より高い意味では、すべて苦しみです。たとえば、良い行いによって私が良い誕生、美しい身体的な特徴、そして良い教育を得ると仮定しましょう。これらすべての良いものを私は持っているかもしれませんが、それは私が物質的な痛みから自由であることを意味しません。物質的な痛みは、誕生、死、老い、そして病です。たとえ私が富裕な人、美しい人、教育のある人、貴族の家庭に生まれた等であっても、私はそれでも死、老い、そして病を避けることはできません。
ですから私たちは、敬虔な活動や不敬虔な活動に関わってはなりません。私たちは超越的な活動だけに関わらねばなりません。それは私たちをこの誕生、死、老いと病の呪縛から救います。それが人生における私たちの目標であるべきです。私たちは良いことあるいは悪いことを切望しているべきではありません。たとえば、人が何かの病気に苦しんでいると仮定しましょう。彼は寝床に横たわり、食べ、不快さを感じながら排泄し、苦い薬を飲んでいます。彼はいつも看護人たちによって清潔に保たれなければなりません。そうでなければひどい匂いがします。彼がこのような状態で横たわっている間に、何人かの友人たちがやってきて、大丈夫かと聞きます。「はい、私は大丈夫です。」この大丈夫とは何でしょうか?不快さを感じながら寝床に横たわり、苦い薬を飲み、動くことができません!それでも、これらすべての不便にも関わらず、彼は「私は大丈夫だ」と言います。同様に、私たちが持っている人生の物質的な概念において、もしも私たちが「私は幸せだ」と考えるなら、それは愚かさです。物質的な人生には幸せはありません。ここで幸せを得ることは不可能です。この状態において、私たちは幸せの意味を知りません。それが、他でもないこの言葉マニーシナー―――「思慮深さ」が使われる理由です。
私たちは何らかの外部的で人工的な方法によって幸せを探しますが、それらはどれくらい長くもつでしょうか?それは長持ちしません。私たちは再び悲しみに戻ってきます。たとえば、陶酔物を摂取することによって私たちが幸せに感じると仮定しましょう。それは私たちの本当の幸せではありません。たとえば、私がクロロフォルムによって無意識にされ、手術の痛みを感じないとしましょう。それは私が手術を受けていないことを意味するのではありません。これは人工的です。本当の喜び、本当の人生が存在します。
シュリー・クリシュナによってバガヴァッド・ギーターにおいて命令されているように、思慮深い者は純粋な意識の水準に位置して、仕事の反応を放棄します。結果は、この誕生と死、病と老いの呪縛が終わるというものです。この終わりは、本当の自己認識、クリシュナ、喜びと永遠の幸せの宝庫との調和です。実に、そこに私たちが得るべき本当の幸せがあります。