狂っているのは誰か?
誰が狂っているのか?(“Who is Crazy” article By Srilla Prabhupada)

ちょうど私たちが眠っている状態で夢を見るように、同様に、これらすべての身体的な活動は夢です。ただ、自分で考えてみてください。あなたの人生の過去において(訳注:in your past life、この場合はいわゆる過去生ではない)、幾つの出来事が起こりましたか?
もしもあなたがそれらのことを考えるなら、それらはちょうど夢のように見えるでしょう。少なくとも私にとってはそうです。私はインドで生まれ、教育を受け、それから結婚し、それから妻と非常に良い日々を過ごし、何人かの子供を得て、そのうちの何人かは死に、何人かは生きており、何人かは結婚しました。
今、彼らは子供をもうけました。これらすべてが私の人生の過去において起こりました。今、それらはすべて夢です。私はそれと何の結びつきもありません。
同様に、夢の中で私は時として自分が王様になったのを見出します。おお、非常に多くの富と非常に多くの栄華(訳注:opulence、どちらも同じような意味だが、前者は財宝や巨万の富を表し、後者は豪華絢爛で贅沢な様子を表す)があります。そして、夢が終われば直ちに私は家に戻り、すべては去ってしまいます(all is gone)。
そのため実際は、私たちが今いそしんでいるこれらの身体的な活動は、私たちの実際の人生ではありません。したがってヴェーダのマントラはこう言います。「おお、人類よ、目覚めてください。あなたが今持っている機会を活用しなさい。」

あなたは特別の機会を持っています。そして、それは何でしょうか?この、生命の人間の形です。活用しなさい:それを無駄にしてはいけません。眠り続けていてはいけません。この全く同じ事柄がシュリー・クリシュナによって取り上げられています。
ヨガの過程に慣れている者は、これを知っています。ヨガの過程の最初の原則は感覚を統御することです。これはすべての過程にとってそうです。霊的な認識のためのいかなる真正なる過程においても、最初の原則は感覚を統御することです。これは、感覚が私たちを人生の最も暗い領域に引きずり込んでいるからです。しかし、私たちはこれを理解しません。
シュリマッド・バーガヴァタムの中に、良い(nice)節があります。それは、まず、人間はこの人生の物質主義的なあり方に過度に依存していると言います。物質主義的な人生のあり方は、食べること、お酒を飲むこと、遊び興じること(酔って騒ぐ)と楽しむことに関わります。
それだけ―――それだけです。とてもおいしい食べ物を食べ、よく眠り、自分の国や、あるいは家に敵が入って来ないように身を守る。そして心行くまで性的な楽しみにふける。これが物質主義的な人生のあり方です。
しかし、そのように眠っている人は自分の本当の自己利益は異なるということを理解しません。私たちの本当の自己利益は、私たちは至高の完全真理との自分の失われた関係を知らねばならないというものです。
至高の完全真理は、非人格的なブラーマン、あるいは局在的な超魂、あるいは至高の人格神シュリー・クリシュナという異なる視点から理解されます。至高の人格神シュリー・クリシュナを理解する者は、自動的に他の二つの形を理解します。
しかし、至高の完全真理の非人格的な形だけに近付いた者は、至高の人格神シュリー・クリシュナについて何の情報も持ちません。さて、ここで、バガヴァッド・ギーターにおいて、至高の人格神があなたの前にいらっしゃいます。
ここに、シュリー・クリシュナと主の永遠の恋人シュリーマティー・ラーダーラーニー、すなわち主の喜びの力の絵があります。この物質の世界では、シュリー・クリシュナと主の喜びの力は歪んだ形で存在しています。

この絵の中で見ることができるように、シュリー・クリシュナはいつも シュリーマティー・ラーダーラーニーとご一緒です(to consort with~、付き合う、交わる)。主の特徴はヴェーダ文献において描写されています。主は、とても美しい曲線状の姿勢でお立ちになり、横笛を吹いておられます。この絵は芸術的な想像から描かれたのではありません。それはヴェーダ文献からの描写的な絵です。この描写はヴェーダ文献の中にあります。
さて(So)、物質世界にはシュリー・クリシュナのラーダーラーニーとの娯楽の歪んだ反映があります。それは、そう見えはしても、私たちが持っているような性生活ではありません。それは超越的です。しかし、ここで私たちが求めているもの―――それは本物です。
若い男は若い女を欲し、そして若い女は若い男を欲します―――これは自然です。これは人工的ではありません。私たちは皆、その至高存在クリシュナの欠かすべからざる小片であるので、これは自然です。私は主の欠かすべからざる小片であるため、主の気持ちは私の中にあります。
ちょうど、金の性質が微小な金の粒の中にも存在するようにです。金の化学的な成分は、金の小さな粒の中に100%存在しています。質的には、です。したがって、私たちが男と女の間に欲する楽しみは、愛と友情の歪んだものではありません。
それは単に歪んだ反映(斜線で強調)です。本当の楽しみは、至高主シュリー・クリシュナとの関わりにおいて目覚めさせられます。それは同じ喜びですが、その純粋な形にあります。その同じ喜びがあなたのためにありますが、楽しみのこの歪んだ形の中に呪縛されるようになってはいけません。眠ったままでいてはいけません。この、夢を見ている状態に留まってはいけません。本当のものを持ちなさい。夢から覚めなさい。それがヴェーダのメッセージです。
これが機会です(訳注:あなたは今、その機会を手にしている)。もしもあなたが生命の人間の形―――発達した意識―――におけるこの機会を逃すなら、あなたは再び、ある形から別の形へと発達している生命の840万種の循環へと滑り落ちるでしょう。それが進化の段階的な過程です。

私たちはまだ進化の過程の中にいますが、その進化の過程は前向き、前進的であるべきです。退化ではありません。滑り落ちてはいけません。下向きに行ってはいけません。長年の努力によって、あなたは生命のこの段階に上がってきました。今、更なる発達をしなさい。シュリー・クリシュナへの発達です。戻ってはいけません。
シュリマッド・バーガヴァタムは、ほとんどの人は人生における自分の自己利益を知らないと言います。それは十字路(crossroad、交差点)に来て方向を知らないようなものです。たとえば、あなたがフィラデルフィアに行こうとしていて、ニューヨーク市を横切ったあと、十字路を見ますが、道を知らないと仮定しましょう。
もちろんアメリカには道路上に非常に効率的な方向体系があります。そのため、道に迷うことはありません。同様に、聖典の中ではヴェーダ文献があなたに道を示します。はい、ここが横断するところです。
もしもあなたがこちらに行きたいなら、そうして構いません。ですから、バーガヴァタムは、人は発達するための方向を知らないと言います。人は、自分はヴィシュヌに向かって更なる進歩をしなければならないと知らねばなりません。なぜでしょうか?なぜなら、これは非常に高く発達した人生だからです。
生命のこの形において、私たちは非常に高い知性を持っています。私たちは、猫や犬や他の動物たちよりももっと多くの知性を持っています。なぜそれを誤用するのですか?迷いは、生命のこの身体的な概念に魅了されたことによります。人は、「私は、体と感覚を最大限に活用して幸せになろう」と考えています。
自分の前進的な人生とは何かを知らないので、私たちはこの体からエキス(essence、真髄)を搾り取ろうとしています。それを楽しむためです。バーガヴァタムの中に、これらの愚かな人々について語った
(to cite)非常に良い例があります。彼らはラクダに例えられます 。
ラクダは、棘のある小枝を非常に好む、砂漠の動物です。彼らは非常に長い首を持っており、そして彼らは棘のある小枝を口に入れ、噛み始めます。棘が刺さって、舌から血が染み出ます。もちろん、棘を噛めば舌が切れます。
そのため、彼らがこれらの棘を口に入れて噛み始めると、血が出ます。そしてそのように混ざると、彼らはそれを食べます。なぜなら、血は彼が好きな味をしているからです。彼は、棘のある小枝はとてもおいしいと考えます。私たちの性生活もそのようなものです。単にそれを体から搾り出し、そして私たちは自分がそれを楽しんでいると考えます。これが私たちの立場です。

もう一つの例が挙げられています。インドでは、洗濯屋はロバを飼います。彼らはロバにできるだけたくさんの荷物を積みます。ロバは一日中働き、そして夕べには幾らかの草を与えられ、そして彼は満足しています。
一掴みの草のために、彼は背中に重い衣類を積んで一日中働く用意があります。同様に、私たちもまた、カルミンたちは、昼も夜もずっと(all day and all night)非常に忙しく働いています。そして家に帰ってきたとき、私たちは一切れのパンだけを食べます。
10セントもしないパン一切れのために、人は昼も夜もずっと働いています。そのため、ロバに比べられます。ロバは誰のために自分がそれほど一所懸命に働いているかを知らず、幾らかのパンを食べます。「これが私の人生の目的です。」
それは私の人生の目的でしょうか―――何か食べて眠り、そして幾らかの性的な喜びを持ち、そしてそれから死ぬことが?いいえ、これは人生の目的ではありません。あなたの人生の目的は、自分自身を―――自分は至高の完全人格神シュリー・クリシュナの欠かすべからざる小片であると理解することであるべきです。クリシュナはあなたの到着を待っておられます。あなたが主との関わりにおいて人生を楽しむことができるようにです。/

人は、人生の前進的なあり方とは何かを知りません。なぜでしょうか?なぜなら、彼はこの感覚的な楽しみが人生の最大の喜びであると理解したからです。彼は愚かにも、この感覚の楽しみによって自分は幸せになると考えています。
これはちょうど、正しく馬勒をつけていない馬を持っているようなものです。それは走って走って、そしてあなたはどこでそれがあなたを投げ落とすか知りません。
同様に、統御されない感覚はちょうどあなたの戦車を引きずっている、馬勒をつけていない馬のようです。あなたは、それがどこであなたを投げ落とすか知りません。私たちは、自分がすべての行動にどれほど責任があるかを理解していません。
私たちの行動のすべての小さな部分に、反応があります。そして、私たちの統御されない感覚は私たちを行動と反応の鎖に投げ込んでおり、私たちを宇宙の最も暗い部分に引きずり込んでいます。
したがって、主シュリー・クリシュナは、どうやって感覚を統御するかを学んだ者はスヴァーミーンと呼ばれる、とおっしゃいます。統御の取れた人にとって、世俗的な活動は暗闇です。純粋な意識の中に位置する者は、単に食べること、眠ること、性交することと身を守ることのために一所懸命に働く人々―――これらの人々は眠っていると見ます。
そして、これらの物質的な活動に携わっている人々にとって、私たちは眠っています。彼らは、スヴァーミージー(訳注:プラブパーダのこと)は私たちを非活動的にする何かを布教するためにアメリカに来た、と見ます。
彼はただ私たちを普通の仕事から引き摺り下ろそうとしていて、そして彼は私たちがキールタンとバガヴァッド・ギーターを聞いて時間を無駄にするように仕向けている。ですから、彼らは私たちが眠っていると信じています。

誰かはこう考えるかもしれません。「これらの気の毒な連中は、意味もなく、何ももたらさない、無味乾燥な何かを論じることで時間を無駄にするためにここに集まった。そこから何か得られるように、何かのビジネスの話をしよう。」私たちはこれらの人々が眠っているのを、そして彼らは私たちが眠っているのを見ます。
さて、実際には誰が眠っているのでしょうか?私はこの体ではない―――私は意識であるという意識の水準に来る者は目覚めています。私はこの体ではない、私は意識であるというこの単純な事実を理解した者は目覚めています。
意識がなくては、私の体は役に立ちません。したがって、私は実際は意識です。私は純粋な意識であり、私の存在のしるしは意識です。私はこの体ではありません。深く考えるとき、私はこれは私の体であると理解することができます。これは「私は」体ではありません。これは私の(斜体で強調)体です。そのため、これを理解した者―――彼は目覚めています。
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