クリシュナ意識とは?  完璧なバクティ・ヨーガ
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クリシュナ意識とは? 完璧なバクティ・ヨーガ

完璧なバクティ・ヨーガを完璧な先生から学びましょう! この会話は、1975 年7月、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアのクリシュナ寺院にあるシュ リーラ・プラブパーダの部屋で、女性記者サンディ・ニクソン氏との間で交わされたものです。クリシュ ナ意識をわかりやすく紹介したすばらしい会話であり、ハレー・クリシュナ・マントラ、グルと最高人格 主神の関係、真のグルと偽物グルの違い、クリシュナ意識での女性の役割、インドのカースト制度、キリ スト意識とクリシュナ意識の関係など、基本的な主題が話されています。 ニクソン氏 まず基本的なことをうかがいます。クリシュナ意識とはなんでしょうか? シュリーラ・プラブパーダ クリシュナは神です。主は全生命体の根源の父ですから、私 たちはだれでも主と親密にむすばれています。ところが、私たちはその絆を忘れています。 「私は神とどう結ばれているのだろうか? 人生の目的は?」 その答を知りたいと思う こと、それがクリシュナ意識です。 ニクソン氏 クリシュナ意識は、実践する人の心のなかでどのように育っていくのでしょ う?シュリーラ・プラブパーダ クリシュナ意識はすべての生命体のなかに息づいています。 いまは物質にとらわれた生活をしているから忘れているにすぎません。すでに持っている クリシュナ意識は、ハレー・クリシュナ・マハーマントラ――ハレー クリシュナ、ハレー クリシュナ、クリシュナ クリシュナ、ハレー ハレー/ハレー ラーマ、ハレー ラーマ、 ラーマ ラーマ、ハレー ハレー――を唱えれば、よみがえらせることができます。たとえ ば、ここにいるアメリカやヨーロッパの⻘年たちは2〜3カ月前はクリシュナのことを知 りませんでした、それが、きのうごらんになったように、ラタ・ヤートラー祭(世界中の クリシュナ意識運動が開催している年1回の祭り)のパレードではハレー・クリシュナを 唱えながら法悦にひたって踊っていましたね。見せかけだと思いますか? もちろん違い ます。うわべの喜びで何時間も唱えたり踊ったりすることはできません。正しい方法に従 った結果、ほんとうにクリシュナ意識をめざめさせたのです。『チャイタンニャ・チャリタ ームリタ』(マッデャ・リーラー第 22 章・107 節) には次のような節があります。 nitya-siddha kṛṣṇa-prema ‘sādhya’ kabhu nayaśravaṇādi-śuddha-citte karaye udayaCC 22.107 sloka クリシュナ意識は全生命体のこころのなかに眠っており、献愛者との交流をとおして目覚めます。不自然なものではありません。若い男女がつきあっていくうちに自然に惹かれ あうように、献愛者と交流しながらクリシュナのことを聞くうちに、それまで心に眠って いたクリシュナ意識が目覚めるのです。…

主クリシュナにとても親しく尊師シュリーラ・プラブパーダの地上で超越的な活動
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主クリシュナにとても親しく尊師シュリーラ・プラブパーダの地上で超越的な活動

はじめてお会いした瞬間から、私は、尊師 A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダが、これまで会った人々のなかでたぐいまれな方であることに気づいていました。最初の出会いは 1966 年、夏のニューヨークです。友人が、マンハッタン南部のバウアリで「年配のインド人スワミ」の講義に行かないか、と私を誘ってくれたのがきっかけです。あんなきたない町でインドのスワミが講義をするなんて、と大いに好奇心をそそられ、私はでかけていきました。まっくらな階段を手さぐりで昇ると、ベルの音のような規則的に響く音がはっきりと大きく聞こえてきました。やっと四階にたどりついてドアをあけたとき、そこにあの方がおられました。 スワミは、私が立っていたところから 15 メートルほど離れた、⻑くて暗い部屋の奥まった場所にある小さな台に座り、その顔とサフラン色の僧衣が小さな電球の下で輝いていました。年配に見え、60 才ほどかな、と私は思いました。足を組み、堂々とした姿勢で座っておられます。頭はきれいにそられ、力みなぎるその顔と赤いフレームの眼鏡が一生を研究にささげてきた僧侶の雰囲気をただよわせていました。目をとじ、小さな太鼓をたたきながらかんたんなサンスクリット語の祈りの言葉を静かに唱えておられました。少数の聴衆も、一定の間隔を保ちながら、やまびこが応えるように、祈りの言葉を繰りかえし唱えていました。数人が小さなシンバルをたたいていましたが、ベルのように聞こえていたのはそのシンバルの音でした。その雰囲気にうっとりした私は、うしろで静かに座り、その唱名に加わろうと努めました。そしてじっと待っていました。 しばらくしてスワミは、目のまえに開かれたまま置かれているサンスクリット語の重厚な本を引用しながら英語で講義をはじめられました。ときどき本をめくりながらサンスクリット語の節を引用されましたが、ほとんどは暗唱しておられました。サンスクリット語の響きは美しく、引用するたびに詳細な説明を加えられました。その様子は学者然とし、使われる言葉には哲学的な用語や熟語が複雑に織り込まれていました。優雅な手の動きと活気あふれる顔の表情が、講義に強烈な力を添えていました。話は、私がそれまで聞いてきた話のなかでもっとも重みのある内容でした。「私はこの肉体ではありません。私はインド人ではないし……皆さんもアメリカ人ではありません……私たちはみな精神魂なのです……」 講義のあと、だれかが私にインドで印刷されたパンフレットをくれました。その写真には、インドのシャストリ首相にスワミが三冊の自著を手渡している様子が写っており、シャストリ首相の「インド政府管轄のすべての図書館がそろえるべき本」という言葉がありました。別の個所には、「尊師 A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダはすばらしい活動を展開し、著された書物は人類の救済に大きく貢献している」ともありました。私は本を数冊買いましたが、あとで、それはインドからスワミ自身がもってこられたものだということを知りました。表紙の折り返し、パンフレット、各種の文典を読んでいくうちに、自分がインドでもっとも尊い精神的な指導者に会ったのだということがだんだんと飲みこめてきました。 しかしどうしてもわからなかったのは、これほど高貴な人物が、なぜこのバウアリに住んで講義をしているのか、ということでした。博識であることはもちろん、その姿を拝見しただけでも高貴なインドの家庭に誕生されたことがすぐにわかります。なぜ、こんな貧しい暮らしをされているのか? なんのためにここにおられるのか? 数日たったある午後、私はスワミを訪ねて、疑問を晴らすことにしました。 驚いたことに、シュリーラ・プラブパーダは(あとになってこの名前で呼ぶようになったのですが)、会えないほど多忙な生活をされていたわけではありません。むしろ、一日中でも私と話してくださるようでした。思いやりと親しみのある方で、1959 年にインドで世俗の生活を捨て放棄生活に入り、そのため自分のためにお金を所持したり稼いだりするのは許されないこと、などを説明してくださいました。学問はずっと以前にカルカッタの大学で終了され、家族を養い、その後、昔から伝わっているヴェーダの教えに従い、家族と仕事を⻑男にまかせたということです。放棄階級になったあと、友人をとおしてインドの貨物船(スチンディア汽船株式会社のジャラドゥタ号)に無料で乗船する機会を得、そして 1965 年9月、ボンベイからボストンへの航海に出られたのです。持ちものはたった7ドルに相当する数十ルピー、本の詰まったトランク1個、数着の服だけ。彼のグルである尊師バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、インドのヴェーダの教えを英語圏の人々に伝える使命をプラブパーダに託しました。まさにこのことが、69才にしてアメリカに来た理由でした。シュリーラ・プラブパーダは、インドの音楽、料理、言葉、さまざまな芸術をアメリカの人々に教えたい、と私に言われました。それを聞いて少なからず驚いたものです。 部屋を見て、シュリーラ・プラブパーダが小さなマットレスの上で眠られていること、衣服は部屋の隅にかけて夏の午後の日ざしで乾かされていることがわかりました。服は自分で洗い、食事は、インドで自分が工夫して作ったという容器で料理をされていました。4層になっているその容器を使って、一度に4種類の料理を作るのです。シュリーラ・プラブパーダのまわりや、室内の別の場所に置かれた旧式の携帯用タイプライターのまわりに積まれていたのは、数え切れないほどの原稿でした。起きている時間のすべて――24 時間のうちの 20 時間――を、私が購入した3冊の続編の翻訳と解説に費やされているということでした。それは、完成すれば 60 巻になる『シュリーマド・バーガヴァタム』という文字通り精神生活の百科事典でした。私は全編が無事出版されることを心から願いました。プラブパーダは土曜日のサンスクリット語の授業、月曜日、水曜日、金曜日の夕方の法話を聴きにくるよう私を誘ってくださいました。私は承諾し、感謝し、そして部屋をでましたが、心のなかで、その力強い決意に驚くばかりでした。 数週間して―― 1966 年7月のことです――寺院をセカンド・アヴェニューのもっと快適な場所に移すことでシュリーラ・プラブパーダのお手伝いをするという光栄に浴すことができました。私は数人の友人と協力し、一階の店舗と、そのビルの敷地内の狭い裏庭のうしろにあるアパートの2階の一部屋を借りることができました。法話と唱名はつづけられ、2週間もするとまたたくまに訪れる人がふえ、店舗と(それまでには寺院になっていた)アパートの部屋の家賃が払えるようになりました。シュリーラ・プラブパーダは従者たちにビラを印刷して配るよう指⽰され、またあるレコード会社の社⻑が、ハレー・クリシュナの唱名をレコードの LP 盤に吹き込む話をもちかけていました。シュリーラ・プラブパーダは弟子たちとレコーディングをし、大成功を収められました。新しくかまえた寺院では、唱名、ヴェーダ哲学、音楽、ジャパ瞑想、美術、料理などを弟子たちに教えられました。最初はプラブパーダみずから料理をされました―――いつも、模範をしめして教えられたのです。できあがったものは、いままで私が味わったもののなかで一番すばらしい料理でした(シュリーラ・プラブパーダは、作ったものすべてを自らの手で私たちに配られたものです)。ふつうメニューは、ご飯を使った料理、野菜料理、チャパーティー(メキシコのトルティヤに似た、全粒小⻨粉のパン)、ダール(ムング豆や干しエンドウを調味料の風味をきかせて煮こんだスープ)などでした。調味料の使い方、料理の素材(ギー、つまりバターを精製して作ったオイル)、料理の温度をはかる細心の注意、その他こまごまとした料理法など、どれも私にはまったく未知の世界でした。プラサーダム(「主の慈悲」の意)と呼ばれるその食べ物について、他の人たちも私とまったく同じ意見をもっていました。中国語の学者でもあるひとりの平和部隊活動家が、シュリーラ・プラブパーダからインドの伝統的な絵画法を学んでいました。最初に描きあげたその作品を見て、その質の高さにずいぶん驚かされたものです。 哲学的な討論になると、シュリーラ・プラブパーダはぜったいに屈しない、そして疲れを知らない方でした。討論のために翻訳作業を中断し、8時間も話しつづけられたこともありました。シュリーラ・プラブパーダが仕事をしたり食べたり、厚さ5センチのクッションで眠ったりする、そして狭くてゴミ一つ落ちていない部屋に7〜8人がぎゅう詰めで座ったこともあります。シュリーラ・プラブパーダは、「質素な生活と高邁な思想」というモットーをいつも強調し、みずから模範をしめしておられました。また、精神生活は単なる感傷や盲目的な信念ではなく、理性と論理で科学的に証明できることを力説されました。やがて月刊雑誌の発行をはじめられ、1966 年の秋、『ニューヨークタイムズ』紙がシュリーラ・プラブパーダとその弟子たちについて好意的な記事と写真を掲載しました。それからまもなく、あるテレビ局が特別番組を制作しました。 シュリーラ・プラブパーダについて知れば知るほど、私の心は高揚していきました。私がヨーガ修練や唱名の恩恵を望んでいたからなのか、あるいは尊師の人間性に惹きつけられていたのかよくわかりませんが、プラブパーダの一つひとつの成功に自分もついていきたいと思っていました。運動を広めようとする尊師の計画は大胆で、私たちにはまったく予測できませんでした。しかし計画がかならず成功するという予測は裏切られたことがありません。師は 70 才で、アメリカのことはなにも知らずに、無一文に等しい状態でこの国に来られましたが、それがいまでは、数カ月のうちに、たった一人で運動をはじめたのです! じつに驚くべきことです。 8月のある朝、セカンド・アヴェニューの店舗寺院でシュリーラ・プラブパーダは「きょうは、主クリシュナが降誕された日です」と言いました。その日は一日中絶食し、寺院にいました。その夜、数人のインドの人たちが偶然に寺院を見つけて入ってきました。そのなかのひとりは、世界の反対側にきて、ささやかながらも本物のインドの寺院を見つけることができてこれほど嬉しいことはない、と涙ながらに話していました。この人がたとえ突拍子のないことを夢みたとしても、こんな経験をするとは思いもよらなかったはずです。そのインド人の客人はシュリーラ・プラブパーダを流暢な言葉で讃え、心からお礼をいい、寄付をわたし、足元にひれ伏しました。だれもがその様子を見て深い感動を覚えました。そのあと、シュリーラ・プラブパーダはその紳士とヒンディ一語で言葉を交わされ、私にはまったく内容がわかりませんでしたが、シュリーラ・プラブパーダの言葉と身ぶりから、二人の魂がふれ合っていることははっきりわかりました。 その年の末、私はサンフランシスコからシュリーラ・プラブパーダに航空券を送り、師はニューヨークからサンフランシスコを訪ねられました。大勢で空港にでかけた私たちは、ハレー・クリシュナ・マントラを唱えてシュリーラ・プラブパーダをターミナルで迎えました。そこから金門橋公園の東側、新しく借りた店舗寺院へと案内しました。そこはニューヨークによく似た環境で、献愛者たちが一つの独立した布教体制を作りあげた感がありました。シュリーラ・プラブパーダはひじょうに喜ばれました。 数週間して、初めてのムリダンガ(両端をたたいて演奏する土製の⻑い太鼓)が、インドからサンフランシスコに届きました。シュリーラ・プラブパーダの部屋に入ってそのことを知らせると、師は目を大きく開き、興奮した声で、すぐに下にいって梱包を開けるよう指⽰されました。私がエレベーターに乗って下に降り、一階にでて玄関まで歩こうとすると、シュリーラ・プラブパーダが駆けつけられました。ムリダンガを早く見たいあまり、階段を駆けおり、私より早く一階に降りてこられたのです。箱をあけるよう私たちに指しめし、着ておられたサフラン色の僧衣の一部を破り、両端だけを残してムリダンガをその布で包まれました。そして「この布ははずさないように」と言われました。それから私たちに、演奏の仕方や扱い方などについて説明されました。 またサンフランシスコでは、1967 年、山車の祭り・ラタ・ヤートラーをはじめられ、プラブパーダのおかげでいまでは全世界の人々が参加できる祭りの1つになっています。ラタ・ヤートラー祭は、インドのジャガンナ一夕・プリーで 2000 年間毎年つづけられてきましたが、サンフランシスコでは 1975 年ごろになると、この祭りが注目を集めるようになり、市⻑が正式に「サンフランシスコのラタ・ヤートラー祭」と命名したほどです。 1966 年の終わりごろから、シュリーラ・プラブパーダは弟子を受けいれるようになりました。最初、弟子たち全員に「私を神としてではなく、神の召使いとして接するように」と説いておられました。そして神として崇拝するよう弟子に教えている我流のグルたちを非難し、「そんな『神』はとても安っぽい」と、ことあるごとに言われました。ある日だれかがシュリーラ・プラブパーダに、「あなたは神ですか」と聞いたことがありました。プラブパーダは「いいえ、神ではありません。神の召使いです」と答え、しばらく考えたあと、「ほんとうは、神の召使いではありません。神の召使いになろうと努めているだけです。神の召使いになるのは、ありきたりのことではありません」 70 才代の半ばを過ぎたシュリーラ・プラブパーダは、翻訳と出版にすさまじい情熱を傾けられるようになりました。世界中の学者たちが、プラブパーダの著書に対して好意的な論評を発表し、アメリカではほとんどの大学が標準の教科書としてそろえていました。出版数は 80 余冊になり、それらは弟子たちによって 25 カ国語に翻訳され、配られた数は5500 万冊にものぼります。シュリーラ・プラブパーダは世界中に 108 ケ所の寺院を開設され、1万人の弟子を受けいれ、また数百万もの人々がその教えに従っています。そして、地球で…

Śrī Vāmana Dvādasi: 主Vāmanadevaの現れ
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Śrī Vāmana Dvādasi: 主Vāmanadevaの現れ

主Vāmanadevaの出現日は、シュリー・ヴァーマナ・ドヴァダシとして祝われます。今年は 2024 年 9 月 15 日です。以下は、シュリーマド・バガヴァタム(第8篇第18から23章まで)から抜粋した、主が小人の化身として過ごした遊戯の短い物語です。 主Vāmanadeva、小人の化身 主Vāmanadevaは、法螺貝、円盤、棍棒、蓮華を身につけてAditiの胎内からこの世にお現れになりました。その体は黒っぽく、黄色い衣をまとっておられました。主Viṣṇuは、Abhijit星が昇ったシュラヴァナ・ドヴァーダシー(Śravaṇa-dvādaśī)の吉兆な時にお現れになりました。その時、三界すべて(高位の惑星系、宇宙空間、この地球を含む)で、すべての半神、牛、ブラーフマナ、そして季節さえもが、神の出現によって幸せでした。そのため、この吉兆な日はヴィジャヤと呼ばれています。sac-cid-ānanda(Bs.5.1)の体を持つ至高人格神が、KaśyapaとAditiの息子としてお現れになったとき、両親はともに非常に驚きました。主は出現後、小人(ヴァーマナ)の姿をおとりになりました。 偉大な聖者たちは皆、歓喜の意を表し、Kaśyapa Muniを前にして、主Vāmanaの誕生日の儀式を執り行いました。主Vāmanadevaの聖なる糸の儀式の際、太陽神、Bṛhaspati、地球を司る女神、天の惑星の主宰神、母親、主Brahmā、Kuvera、7人のṛṣis(リシ)、その他によって主Vāmanadevaが称えられました。その後、Vāmanadevaは、Narmadā川の北側にあるBhṛgukaccha(ブリグカッチャ)と呼ばれる野原の供犠の場を訪問されました。そこでは、Bhṛgu(ブリグ)王朝のブラーフマナたちがヤッギャを行っていました。muñjaの麦わらで作ったベルトを締め、鹿皮の上着と神聖な糸を身につけ、手にはダンダと傘と水瓶(kamaṇḍalu,カマンダル)を持って、Vāmanadevaはバリ王の供儀の場にお現れになりました。その超越的で光り輝く存在に、僧侶たちは皆力を失い、席から立ち上がってVāmanadevaに祈りを捧げました。主Śivaでさえ、Vāmanadevaのつま先から出たガンジス川の水を頭に受けます。そのため、バリ王は主の足を洗った後、すぐに主の足から出た水を頭に受け、自分と先人たちが確かな栄光を受けたと感じました。それからバリ王は主Vāmanadevaの安否を尋ね、主にお金や宝石など主がお望みになるものを求めてほしいと頼みました。 主Vāmanadevaがバリマハーラージャに施しを乞う バリ・マハーラージャは、Vāmanadevaをブラーフマナの息子だと思い、何でもお好きなものをお望み下さいと言いました。すると、Vāmanadevaはヒラニャカシプとヒラニャークシャの英雄的な行動を称賛し、バリ・マハーラージャの生まれた家を称賛した後、王に3歩分の土地を懇願なさいました。バリ・マハーラージャは、この土地は取るに足りないものだったので、施しとして与えることに同意しましたが、シュクラーチャーリャは、Vāmanadevaが神々の友人であるViṣṇuであることを理解していたので、バリ・マハーラージャにこの土地を与えることを禁じました。シュクラーチャーリャはバリ・マハーラージャに約束を撤回するよう勧めました。彼は、他人を従わせたり、冗談を言ったり、危険に対応したり、他人の幸福のために行動したりするとき、人は約束を果たさなくても、何の罪もないと説明しました。この哲学によって、シュクラーチャーリャはバリ・マハーラージャがVāmanadevaに土地を与えるのを思いとどまらせようとしました。 バリ・マハラジャが宇宙を明け渡す シュクラーチャーリャの有益な助言を聞いた後、バリ・マハーラージャは思索にふけりました。宗教、経済発展、感覚満足の原則を維持するのは世帯主の義務であるため、バリ・マハーラージャはブラフマチャーリーとの約束を撤回するのは不適切だと考えました。ブラフマチャーリーに与えた約束に嘘をついたり、守らなかったりすることは決して適切ではありません。なぜなら、嘘は最も罪深い行為だからです。誰もが嘘に対する罪深い反応を恐れるべきです。なぜなら、母なる地球は罪深い嘘つきの重荷にさえ耐えられないからです。王国や帝国の拡大は一時的なものであり、一般大衆に利益がなければ、そのような拡大には価値がありません。これまで、偉大な王や皇帝は皆、一般大衆の幸福を考慮して王国を拡大しました。実際、一般大衆の利益のためにそのような活動に従事している間、著名な人々は時々自分の命を犠牲にすることさえありました。栄光に満ちた活動を行う者は常に生きていて、決して死ぬことはないと言われています。したがって、名声は人生の目標であるべきであり、良い評判のために貧困に陥ったとしても、それは損失ではありません。たとえこのブラフマチャーリーであるVāmanadevaが主Viṣṇuであったとしても、たとえ主が彼の施しを受け入れて再び彼を逮捕したとしても、バリ・マハーラージャは彼を妬むことはないだろうと考えました。これらすべての点を考慮して、バリ・マハーラージャは最終的に所有していたすべてのものを施しとして与えました。 すると主Vāmanadevaは、たちまち宇宙体へと自らを広げていきました。主Vāmanadevaの慈悲により、バリ・マハーラージャは主が遍在し、すべてのものが主の体に宿っていることを知ることができました。バリ・マハーラージャは主Vāmanadevaを、兜をかぶり、黄色い衣をまとい、シュリーヴァツァの印、カウストゥバの宝玉、花輪を身につけ、全身を装飾品で飾った至高のViṣṇuとして見ることができました。このように、その活動が素晴らしい至高人格主神は、1歩で地球の表面全体を覆い、その体で空を覆い、その腕であらゆる方向を覆いました。そして2歩目で上層惑星系全体を覆いました。そのため、3歩目で踏み出すことのできる空き地はありませんでした。 主によって逮捕されたバリ・マハーラージャ 二歩目で、至高人格神は宇宙の頂点にある惑星ブラフマローカに到達され、その美しさを足の爪の輝きで縮小なさいました。こうしてブラフマー神は、マリーチのような偉大な賢者達やすべての高位惑星の支配的な神々を伴って、主に謙虚な祈りと礼拝を捧げました。彼らは主の足を洗い、あらゆる道具を使って主を礼拝しました。リクシャラージャ、ジャンバヴァンはラッパを吹き、主の栄光を響かせました。 バリ・マハーラージャがすべての財産を奪われたとき、悪魔たちは非常に怒りました。バリ・マハーラージャは悪魔にそうしないように警告しましたが、悪魔たちは主Viṣṇuに対して武器を取りました。しかし、彼らは皆、主Viṣṇuの永遠の仲間によって打ち負かされ、バリ・マハーラージャの命令に従って、全員が宇宙の下層惑星に入りました。主Viṣṇuの目的を理解した主Viṣṇuの運搬人であるガルダは、すぐにヴァルナのロープでバリ・マハーラージャを捕らえました。バリ・マハーラージャがこのようにして無力な立場に追い込まれたとき、主Viṣṇuは彼に3番目の土地をお求めになりました。バリ・マハーラージャが約束を果たせなかったとき、主Viṣṇuはバリ・マハーラージャの決意と誠実さを評価されたので、主Viṣṇuは彼の居場所は天の惑星よりも良いスタラ惑星であると確定なさいました。 バリ・マハーラージャが命を捧げる バリ マハーラージャは非常に誠実な人でした。約束を守れなかったため、彼は非常に恐れていました。誠実さから逸脱した者は社会の目には取るに足らない存在であることを知っていたからです。高貴な人は地獄のような生活の結末に苦しむことはできますが、彼は真実から逸脱したことで中傷されることを非常に恐れています。バリ マハーラージャは、至高人格神から与えられた罰を喜んで受け入れました。バリ マハーラージャの王朝には、Viṣṇuに対する敵意のために、多くの神秘的なヨギよりも崇高な目的地に到達したアスラがたくさんいました。バリ マハーラージャは、献身的な奉仕に対するプラフラーダ マハーラージャの決意を特に覚えていました。これらすべての点を考慮して、彼はViṣṇuの第3歩目の場所として、布施のために自分の頭部を差し出すことにしました。バリ・マハーラージャは、偉大な人物たちが至高神を満足させるために家族関係や物質的所有物を放棄する様子にも注目しました。実際、彼らは主を満足させるために、ただ主の個人的な召使い・従者・しもべになるために、時には自らの命さえも犠牲にしました。したがって、バリ・マハーラージャは、先代のアーチャーリャや信者たちの足跡をたどることで、自分が成功したと感じました。 バリ・マハーラージャがヴァルナの縄に捕らえられ、主に祈りを捧げていると、祖父のプラフラーダ・マハーラージャが現れ、至高人格神が巧妙な方法で彼の財産を奪い、バリ・マハーラージャを救った様子を語りました。プラフラーダ・マハーラージャが同席する中、主ブラフマーとバリの妻ヴィンディヤーヴァリは至高主の至高性について語りました。バリ・マハーラージャは主にすべてを捧げていたので、彼らは彼の解放を祈りました。すると主は、非献身者の富の所有は危険であるのに対し、献身者の富は主からの祝福であると語りました。すると、至高主はバリ・マハーラージャに満足され、バリ・マハーラージャを守るために円盤を差し出し、彼とともにいることを約束なさいました。 半神たちが天界の惑星を取り戻す 偉大なる魂バリ・マハーラージャは、人生における最高の利益は、完全な服従をもって主の蓮華の御足のもとで献身奉仕を達成することである、と体験しました。この結論に固定し、心は恍惚とした献身で満たされ、目には涙が溢れ、彼は人格主神に敬意を表し、それから仲間とともにスータラとして知られる惑星に入りました。こうして、至高人格神はAditiの願いを満たし、インドラ神を再び座にお就かせになりました。プラフラーダ・マハーラージャはバリが拘束から解放されたことを知って、それからこの物質界における至高人格神の超越的な遊戯について説明しました。プラフラーダ・マハーラージャは、物質界を創造し、すべての人に平等であり、望みの木のように献身者に対して極めて寛大である至高主を称賛しました。実際、プラフラーダ・マハーラージャは、主は献身者だけでなく悪魔に対しても親切であると述べました。このようにして、彼は至高人格神の無限のいわれなき慈悲を描写しました。そして、手を合わせて主に敬意を表し、主の周りを巡礼した後、主の命令に従ってスタラ星に入りました。 主は、それからŚukrācāryaに、バリ・マハーラージャが供犠の儀式を遂行する際の誤りと矛盾点を説明するように命じました。Śukrācāryaは主の聖なる名前を唱えることで果報的な行為から解放され、どのように唱えることで束縛された魂のすべての過失を減少させることができるのかを説明しました。それからバリ・マハラジャの供儀を完了しました。すべての偉大な聖者たちは、インドラを天界に帰還させた主Vāmanadevaを、主インドラの恩人として受け入れました。彼らは、宇宙のすべての事柄の維持者として、至高人格神を受け入れました。非常に喜んだインドラは、仲間とともにVāmanadevaを自分の前に乗せ、自分たちの飛行機で天界に戻りました。バリ・マハーラージャの供儀の場で主Viṣṇuが素晴らしい活動をなさるのを見て、すべての半神、聖者、ピター、ブータ、シッダは、何度も何度も主を讃えました。 束縛された魂の最も縁起の良い働きは、主Viṣṇuの栄光ある活動について唱え、聞くことです。死に支配されている者は、地球上の原子の数を数えることができないのと同じように、至高人格神、Trivikrama、主Viṣṇuの栄光を測ることはできません。すでに生まれている者も、これから生まれる者も、誰もこれを行うことはできません。これは偉大な聖者Vasiṣṭhaによって歌われました。至高人格神のさまざまな化身における並外れた活動について聞いた人は、間違いなく高次の惑星系に昇格するか、あるいは故郷、つまり神のもとに連れ戻されます。

Oṁ namo bhagavate vāsudevāyaの解説
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Oṁ namo bhagavate vāsudevāyaの解説

VāsudevāyaとはVasudevaの息子であるKṛṣṇaを意味します。Vāsudevāya、Kṛṣṇaの御名を唱えることで人は慈善、禁欲生活と苦行の全ての良い結果を達成することが出来ます。従ってこのマントラoṁ namo bhagavate vāsudevāyaを唱えることによってŚrīmad-Bhāgavatamの著者又は語り手又は読者は全ての喜びの源である至高主Kṛṣṇaに尊敬の礼を捧げるということを理解されています。 このoṁとは主に向かって言を呼びかけることを意味します。全てのVedaマントラで呼んでいます。私たちこのmahā-mantraであるHare Kṛṣṇaも呼びかけることです。Hare,Hare,主のエネルギーであるHarāを呼びかけています。エネルギーはHarā, Rādhā, Sītāです。女性を呼びかける時このようです。Hare, Late, Sīte, Rādhe。従ってHareとはまず第一に最初にエネルギーを呼びかけることを意味します。非人格主義者たちはこのことを知りません、まず第一に最初にKṛṣṇaのエネルギーを呼びかけること。私たちGauḍīya-VaiṣṇavaはKṛṣṇa一人だけを崇拝しているのではありませんekala-vāsudeva、いいえ。私たちはKṛṣṇaのエネルギーとともにKṛṣṇaを崇拝しなければなりません。丁度Kṛṣṇārjunaのように、KṛṣṇaとArjuna。Arjunaもエネルギーです。Rādhā-Kṛṣṇa,クリシュナの内的エネルギーと中間エネルギーです。 KṛṣṇaとはKṛṣṇaのエネルギーと共に意味します。Oṁ namo bhagavate vāsudevāya.このbhagavateとはエネルギーに満たされいることを意味します。bhagavānについては何度か説明してきました。Bhagaは豊かさ、vānは所有する者という意味です。Bhagavān. これがBhagavānという言葉の意味です。ですから、このBhagavānという言葉は、bhagavateと呼ばれます。この言葉は bhagavat、bhagavat-śabdaです。 ですから、bhagavateはこう言うのです、oṁ namo bhagavate vāsudevāya.Vāsudevāya, これは…、śabdaの第四の形、音のバイブレーションの形です。第四の形。ちょうどkṛṣṇāyaのようなものです。私が何かを捧げるとき、kṛṣṇāya, viṣṇave. 同じように、bhagavate, vāsudevāya. つまり、Śrīmad-BhāgavatamとはKṛṣṇaのことです。それ以外はありえません。これがkṛṣṇa-kathāです。Bhagavad-gītāもまた、kṛṇa-kathāです。Kathāは言葉を意味します。ですから、Kṛṣṇaによって語られるKṛṣṇaの言葉、それがBhagavad-gītāです。Bhagavad-gītāについて語られた言葉、それがŚrīmad-Bhāgavatamです。あるいは、Kṛṣṇaの献愛者について語られた言葉がbhāgavataです。bhāgavataには2種類あります。ひとつはこの本bhāgavataであり、もうひとつは献愛者です。彼もまたbhāgavataです。Caitanya Mahāprabhuは、bhāgavata para giya bhāgavata sthāneを勧めています:「あなたは bhāgavataのところに行って、bhāgavataである人からŚrīmad-Bhāgavatamを読みなさい。」そうでなければ、あなたは誤解するでしょう。Bhāgavata para giya bhāgavata sthāne. 引用:Śrīmad-Bhāgavatam 2.1.1

本当の入門は誰が行うか?
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本当の入門は誰が行うか?

下記は、国際クリシュナ意識協会の信徒とプルジット・ダーサ(PURUJIT DASA)が、クリシュナ意識への入門というテーマで交わした会話です。 献身者:私は混乱していて、もしあなたが私のためにそれを明らかにしてくれるなら、教えて下さい。あなたの理解によれば、私たちは後継のグル(師)たちから入門を受けるのですか、それとも彼らは単にシュリーラ・プラブパーダの代理として私たちを入門するのですか? プルジット:さて、師には2つの種類があります。ディクサ師(入門の師)とシクサ師(講師)です。シクサ師は、ディクサ師に代わって指導したり 入門 させたりする人です。例えば、シュリーラ・プラブパーダは、グルがすでに不在だった後、神兄弟からサニヤサの入門を受けました。プラブパーダは言います。 「私のように、私はグルマハラジャから入門を受けましたが、サニヤシであるゴッドブラザーからサニヤシを得ました。ですから、私の本来のグルは、私を入門してくれた精神尊師ですが、彼はシクサのグルでもあるのです。そのようなものです。先生 」 (シュリーラ・プラブパーダとハヤグリーヴァの間で行われたチャイタニャー神プレイに関する講話 — 1967年4月5-6日、サンフランシスコ) 学校で、どこかの著者が書いた教科書があるのと同じです。その著者は大学にいないかもしれませんが、自分でその本を読んだことのある教師がいて、学生にうまく説明することができるのです。シュリーラ・プラブパーダはこの会話の中で、シクサ・グルとディクサ・グルの関係について説明しています。 マドゥヴィサ:…本を読んだだけでは、開業医にはなれません。開業医の下で学ばなければなりません。では、あなたの本の場合、実際にあなたと個人的な付き合いをしなくても、献身者になることは可能なのでしょうか?本を読んだだけで、ですか? プラブパーダ:いいえ、作者と付き合わなければならないわけではありません。でも、もしあなたが理解できないなら、その人から教えを受けなければなりません。必ずしも、常に作者と連絡を取らなければならないわけではありません。 献身者:教科書が先生によって書かれたものではなく、他の教授によって書かれたものであるのと同じように。 献身者:普通は作者に会うこともないでしょう。 プラブパーダ:単に主題を知っている人なら、説明することができます。 マドゥヴィサ :しかし、あなたの解説は、説明の代わりになるのでしょうか。 プラブパーダ:その主題を知っている人なら誰でも、説明することができるでしょう。必ずしも著者がその場にいる必要はないのです。[医学者から学べとは言いましたが、著者から学ばなければならないとは言っていません。あるいは、著者の目的を理解している人です。ちょうど私たちがバガヴァッド・ギータをありのままに説明しているように。クリシュナから直接学ばなければならないわけではありません。クリシュナを理解した人が、クリシュナから学ぶのです。それがパランパラのシステムです。 朝の散歩 — 1975年5月21日、メルボルン ここで重要なのは、シュリーラ・プラブパーダが、もし理解できないなら知っている人の指導を受けるべきだと言っていることです。このことは、もし人が有能であれば、シュリーラ・プラブパーダの本を読むだけで献身者になれるということを示しています。シュリーラ・プラブパーダは、このやりとりの中で、このことを確認しているようです。もし理解できないのであれば、先輩のゴッドブラザーがシュリーラ・プラブパーダの言うとおりに話すのであれば、指導を仰いでも問題はないでしょう。重要なのは、どちらのシナリオでもシュリーラ・プラブパーダが最高権威であるということです。 スダマ : また、実際にどのように権威に従えばいいのか、という疑問も出てきます。その間にある権威とは何でしょうか? プラブパーダ:権威とは、あなたの精神尊師のことです。あなたは誰が権威なのか知らないのですか?なぜこのような質問があるのでしょうか。もし誰かが入門を受けたなら、その人は権威を受け入れたことになります。そして、もし精神尊師の指示に従わないのであれば、その人は悪党です。彼は権威に逆らっているのです。それがすべてです。 スダマ : 質問もあります。権威は精神尊師ですが、精神尊師への媒介は…その立場は・・・。私たちが自動車の中で議論していたように、シクサとディクサ・グルとの違いです。時々… プラブパーダ:シクサとディクサグルは…。シクサ・グルは、精神尊師の教えに反して指導をします。彼は悪魔です。シクサ・グル、ディクサ・グルとは… ディクサ・グルは常に存在するわけではありません。ですから、人は上級の献身者から学び、指導を受けることができます。それがシクサ・グルと呼ばれるものです。シクサ・グルとは、ディクサ・グルの教えに反することを話しているのではありません。彼はシクサ・グルではありません。彼は悪党です。  バガヴァッド・ギーター17.1-3 1974年7月3日、ホノルル 入門についてもっと具体的に説明する前に、今までのことが明確になっているかどうか教えてください。 献身者:はい、理解できたと思います。でも、ひとつだけ、入門取り上げるときに、あなたが答えてくれるかどうか分かりませんが。プラブパーダは私たちの最後のディクシャ・グルであると考えるべきでしょうか。彼の弟子たちは、彼が不在の間ディクシャ・グルになってはいけないのでしょうか? プルジット:わかりました、では、ディクサの定義について話しましょう。 あなたがどう理解しているか、自分の言葉で定義を教えてください。 献身者:了解です。。私の理解は限られていますが、私が教わった限りでは、ディクサ・グルの目的は、人をサンプラデーヤと結びつけ、弟子たちを指導することです。そして、シクサ・グルは私たちを教育するために存在しますが、弟子を取ることはありません。あるいは献身者は、すでに他のグルから入門を取っていれば、ディクシャ・グルを自分のシクシャ・グルとして受け入れることができます。 プルジット:はい、でも彼はどうやってリンクするのですか? サムプラダイヤとのリンクとは何ですか? 献身者:私の理解では、主にグルから弟子への聖なる御名の音声による伝達、次にヤギヤとグルが唱えたビーズを受け取ることだと思います。 プルジット:そうではありません。例えば、あなたは道行く献身者から聖なる名前を聞きますが、それはあなたのディクサのグルなのでしょうか。 献身者 : (笑), いいえ 😅 プルジット: あ 🙂ということで、もう少し差があるはずです。しかし、基本的にはあなたの言うとおりです。 献身者:プラブー、私を啓発してください。 プルジット:バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナがパランパラをどのように定義しているかを見てみましょう。 この至高の科学は、このように師弟継承の連鎖を通して受け取られ、聖なる王たちはそのように理解しました。しかし、時の経過とともにその継承は途絶え、そのため、ありのままの科学は失われたように見えます。 (Bg 4.2) これは、第4章においてクリシュナが述べていることです。師弟継承の連鎖は、至高の科学を伝承することです。それは知識の伝達です。聖なる名前を唱えることは、この時代に定められたサンキールタナ・ヤージュナ(供犠)であることをご存知でしょう。 献身者:なるほど プルジット:では、クリシュナが精神指導者を受け入れるようにと述べている節を読んでみましょう。ただ、精神の師匠に近づいて真理を学ぼうとしなさい。従順に師匠に質問し、師匠に仕えなさい。自己実現した魂は、真理を見たことがあるので、あなたに知識を与えることができます。 (バガヴァッドギーター4.34)…

人は非常に謙虚でなければならない
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人は非常に謙虚でなければならない

ですから、これらの思い上がった人々はクリシュナを理解することはできません。人は非常に謙虚にならなければなりません。キリストもまた、『神の国は謙虚で柔和な者たちのためにある』と言われています。そのことは実は、、、そしてクリシュナもまた言いました、sarva-dharmān parityajya mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja (BG 18.66)。「はい、私は何も持っていません、取るに足らない者です。」これこそが、謙虚さの始まりです。Bahūnāṁ janmanām ante jñānavān mām (BG 7.19)。グル、クリシュナの前では常に取るに足らないものであり続けること、これが真の知識です。そして、それは利益なのです。誰かが「私は私のグル以上、クリシュナ以上になった」と考えるなら、その人はお終いです。ですから、人はとても謙虚で柔和になるべきです。制度上、自分がbrahmacārī, gṛhastha, vānaprastha, sannyāsaいづれに位置しているかは問題ではありません。たとえサンニャーサの階級を得た人であっても、彼は常に謙虚でいるべきです。 ですから、私たちは決して「自分はとても偉大な人物になった」と考えるべきではありません。それが私のグル・マハーラージャの教えでした。baḍa vaiṣṇavaとは「私はとても偉大なヴァイシュナヴァです。誰もが来て私の命令に従わなければなりません。」これこそが非難された立場ですね。本当の立場とは、人は非常に謙虚で柔和でなければならないということです。Jñāne prayāsam udapāsya namanta eva. Namantaとは謙虚という意味です。人は… Namanta eva san-mukhari..純粋な献愛者たちから学ぶ心構えがなければなりません。純粋な献愛者たちからの話を非常に待ち望むべきです。それと同じこと、anyābhilāṣitā-śūnyaṁ。クリシュナに仕えること以外に物質界では何の望みも持たない人こそ、純粋な献身者です。ですから、謙虚にそのような人物からの話を聞くのを切望すべきです。 (Srila Prabhupada Lecture, Mayapur, February 10, 1976)

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クリシュナの献愛者になれば、クリシュナと一緒に暮らせる

シュリーラ・プラブパーダによる講座 12月25日1973年, シュリーマド・バーガヴァタム(第1篇・第15章・第47-48節) Tad-dhyāna udriktayā. Dhyānaの意味は瞑想です。だからパーンダヴァたちは、いつもクリシュナのことを考えていた。食事をしている時も、座っている時も、寝ている時も、話している時も、戦っている時も、クリシュナ。これがクリシュナの意識です。アルジュナが戦っていたときも、そこにはクリシュナがいました。彼らがのドゥリョーダナと政治的な取引をしていたとき、そこにはクリシュナがいました。クリシュナは彼の友であり、いつも彼と話し、彼と泊まり、彼と寝、彼と食べています。

シュリーマド・バーガヴァタム | 案内
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シュリーマド・バーガヴァタム | 案内

この『シュリーマド・バーガヴァタム』は、神の文学の化身であり、シュリーラ・ヴャーサデーヴァによって編纂された。この書物は万⺠の究極の幸福のためにあり、あらゆる⾯で成功し、あらゆる⾯で至福に満ち、あらゆる⾯で完璧である。 本当の幸福を求めるのであれば、至高主クリシュナを理解するための道を切りひらき、『シュリーマド・バーガヴァタム』のすべてのページに描写されている主の高潔な行動を理解したうえで、主を讃えなくてはなりません。

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どこでもサンキールタナ・ヤジュニャ

このチャイタンニャ・マハープラブーとニッティヤーナンダは、クリシュナとバララーマの化身です。ですから、このヤジュニャは、ヴィシュヌまたはクリシュナ・バララーマという意味で、クリシュナ・バララーマを満足させるためにあります。

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Rādhā-Kṛṣṇaの存在に気づく

 “ここにŚrī Caitanya MahāprabhuやRādhā-Kṛṣṇaの絵がある”と思わないでください。絵ではありません。個人的に存在することを知るべきです。皆さんは、献身的な奉仕の質によって、個人的な存在に気づきます。もし皆さんの献愛奉仕の質が一流でないなら、ここにいるのは個人的なKṛṣṇaやŚrī Caitanya Mahāprabhuであることを理解するのに時間がかかります。 もし皆さんの献身的な奉仕の質が一流でないなら、ここに個人的なKṛṣṇaやŚrī Caitanya Mahāprabhuやācāryasがいることを理解するのに時間がかかります。それは実現性の問題です。規則的な原則を厳守し、16周を定期的に唱えれば唱えるほど、悟ることが出来ます。なぜなら、神、クリシュナは全能だからです。クリシュナは皆さんの奉仕を受け入れることができます。写真からでさえ、皆さんを祝福することができます。それが神の力です。 シュリーラ・プラブパーダによる講座9月8日1973年, シュリーマド・バーガヴァタム(第5篇・第5章・第1節) この神像崇拝は、ゴーヴィンダと直接触れることでもある。Śrī-vigrahārādhana-nitya-nānā-śṛṅgāra-tan-mandira-mārjanādau. このヴィグラハ(クリシュナのご神像)は、クリシュナの慈悲でもあるのです。クリシュナはalakṣyaであり、目に見えませんが、皆さんが見ることができるように、皆さんのたやすさのために目に見えるようになったのです。 クリシュナが石であるとか、クリシュナが木であるとか、クリシュナが金属であるとかいうことではありません。クリシュナは常にクリシュナですが、私たちが木、石、金属以外は見えないので、木、石、金属と同じように見えています。しかし、クリシュナは木でも石でも金属でもありません。 シュリーラ・プラブパーダによる講座4月13日1973年, シュリーマド・バーガヴァタム(第1篇・第8章・第21節)