放棄した者は、乞食と同じ類でしょうか?彼らは、社会にとって何かの役に立っているのでしょうか?
あらゆる宗教的伝統において、絶対真理の探究には放棄心を高めていくことが大切であるとされています。
しかし、今日の物乞いは怠惰の結果として生じているものであり、放棄生活とは異なるのです。
放棄生活とは、怠惰であることではなく、最上の宗教的活動に積極的に従事することなのです。
cīrāṇi kiṁ pathi na santi diśanti bhikṣāṁ、naivāṅghripāḥ para-bhṛtaḥ sarito ‘py aśuṣyan
ruddhā guhāḥ kim ajito ‘vati nopasannān、kasmād bhajanti kavayo dhana-durmadāndhān (SB 2.2.5)
ぼろは道ばたにいくらでも落ちている。生き物を養うために生きる木がもう慈善を施さなく なったと思うか。川が干上がり、喉の渇きをいやす水が飲めなくなったとでも言うのか。山の 洞窟が埋まったのか、いやそれよりも、身をゆだねようとする魂を全能の主が守ってくれなく なったとでも言うのか。ではなぜ博識な聖者たちは、苦労して貯めた富に陶酔している者たち に物乞いしているのか。
要旨解説 放棄階級の生活は、まるで寄生虫のように人に物乞いをしたり、金をせびったりして生きる ために用意されているのではありません。「寄生虫」を辞書で見ると、社会に依存しつつその 社会に貢献しない追従者、とあります。放棄階級は社会のためになることを提供する地位であ り、暮らしを世帯者に頼る生活ではありません。真摯な托鉢僧が世帯者から布施を受けいれる のは、寄付者が明確な恩恵が得られるよう聖者が用意した機会なのです。サナータナ・ダルマ の制度では、托鉢僧に布施を差し出すことは世帯者の義務の一つであり、経典でも、世帯者は 托鉢僧と家族の子どものように接し、乞われなくても食べ物や衣服などを差しだすもの、と述 べられています。ですから偽物の托鉢僧が、誠実な世帯者が持つ慈善の心につけこむことがあ ってはなりません。放棄階級者の最初の義務は、文筆活動をとおして人間社会に貢献し、自己 を悟るための教えを人類に与えることにあります。シュリーラ・サナータナ、シュリーラ・ルーパ、そのほかのヴリンダーヴァナのゴースヴァーミーたちが従っていた放棄生活のなかでも 主要な義務は、ヴリンダーヴァナのセーヴァークンジャ(シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァ ーミーが設置したシュリー・ラーダー・ダーモーダラ寺院、そして現在シュリーラ・ルーパ・ ゴースヴァーミーとシュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーが埋葬されているほんとうのサ マーディ墓碑)で、博識な論議をたがいに交わすことでした。人類すべての恩恵のために、か れらは超越的な重要性を持つ膨大な文献を世に残しました。同じように、進んで放棄階級の生 活を受けいれたアーチャーリャすべては、人間社会が幸せになることが目的であって、他人を 犠牲にして快適かつ無責任に暮らすことはしませんでした。しかし、そのような貢献ができな い者は、食べ物を乞うために世帯者を訪ねるべきではありません。托鉢僧が世帯者にパンを求 める行為は、もっとも高い階級そのものに対する冒涜だからです。シュカデーヴァ・ゴースヴ ァーミーは、生計の問題を解決するためにこの階級を受けいれた者に対してとくに警告してい ます。そのたぐいの托鉢僧がカリ時代にあふれています。意欲的に、あるいはやむをえない事 情で托鉢僧になった人は、至高主が宇宙の全生命体の維持者であることに堅い信念と確信を持 っているはずです。ならば、主への奉仕に全身全霊をこめて身をゆだねるそのような魂を主が 養わないことがあるでしょうか。ふつうの主人なら、召使いが必要としているものを叶えてあ げるはずですから、全能ですべての富を持つ至高主が身をゆだねた魂の生活に必要なものを出 さないことがあるでしょうか。托鉢僧の献愛者は、だれにも乞わずに質素で小さな腰巻きをま とうのが決まりになっています。道路に捨てられているような破れた布を体に巻くだけです。 空腹になれば、くだものを落とす寛大な木のところに行き、喉が渇けば川の水を飲みます。快 適な家に住む必要はありませんが、丘の洞穴を見つけ、全生命体の心臓に住んでいる神に身を ゆだね、密林に住む動物を怖がってはなりません。主は密林に住む⻁やほかの動物に、主の献 愛者を邪魔しないよう命じることもできます。主チャイタンニャの偉大な献愛者ハリダーサ・ タークラは、ある洞穴に住んでいましたが、たまたま猛毒の大蛇もいっしょにそこに住んでい ました。ハリダーサ・タークラの信奉者がよく訪ねてくるのですが、蛇を恐れたかれらは、タ ークラに別の場所に移ったらどうか、と頼みました。ハリダーサ・タークラは、献愛者たちが 蛇を怖がり、それでも定期的に尋ねてくるので、その申し出を受けいれて出ていくことにしま した。ところが、話がこのように決まったとき、客人たちが見ているなかで、蛇はその洞穴か ら出ていきました。蛇の心臓のなかに住む主の指図で、蛇はハリダーサを優先し、邪魔しない ために出ていったのでした。これが、タークラ・ハリダーサのような真摯な献愛者を主が守る 確かな例です。サナータナ・ダルマの原則では、どのような状況でも主の保護に依存すること を若いころから修練することになっています。放棄の道は、完全に悟って完全に純粋な境地になった人が受けいれるよう勧められています。この境地は『バガヴァッド・ギーター』(第16 章・第5節)でdaivi sampat(ダイヴィー サンパトゥ)と表現されています。人間はこのダイヴィー・ サンパトゥ「精神的財産」を積まなくてはなりません。それができなければ、次の選択肢、す なわちAsuri sampat(アースリー サンパトゥ)「物質的財産」がかれを征服し、やがて物質界のさま ざまな苦しみを強いられるようになります。サンニャーシーはいつでも一人で住み、だれかを 伴うことなく、そして恐れのない境地にいなくてはなりません。主はだれもの心臓のなかに住 んでいますから、定められた方法をとおして純粋になっていない人は、自分一人しか見ること ができません。しかし、放棄階級者は、この方法で自分を清めなくてはなりません。そうすれ ばどこに行っても主の存在を感じ、(仲間がいなくても)なにをも恐れない心境になります。 だれでも恐れのない心境に、そして正直な人間になれます――それぞれの生活段階・階級に定 められた義務をはたして純粋になれば。ヴェーダの教えを信念をこめて傾聴し、主への献愛奉 仕をとおしてヴェーダ知識の真髄を吸収消化すれば、自分に定められた義務に立脚できるよう になります。
