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  • クリシュナブック週刊読書会

    著者:尊師A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダからメッセージ 物語のように見えるけれども、クリシュナ・ブックをもし皆さんが読むだけで、生と死の繰り返しの束縛から解放されるのです。それはとても素晴らしいことです。なぜなら、クリシュナとは何かを理解できるからです。ここに、janma karma me divyaṁ ye jānāti tattvataḥ [Bg. 4.9] と書かれています。そのことが説明されています。クリシュナ・ブックを真剣に読み、クリシュナを理解しようとする人は、きっと理解できます。クリシュナはとても親切です。少しでも信仰心をもって、クリシュナ・ブックを読み始めると、クリシュナはとても喜んで下さります。 本の案内 バガヴァーン・クリシュナは、完全な富、完全な力、完全な名声、完全な知識、完全な美、完全な放棄という六つの富に常に満ちていらっしゃいます。主は完全で永遠な様々な化身の姿でお現れになります。これらの色々な化身の姿で主は様々な活動をなされたので、束縛された魂にとって主の活動は汲めども尽きぬ泉で、聞くにこと欠くことはありません。バガヴァッド・ギーターには、「ジャンマカルヤチャメーディヴャン」と記述されています。主の遊戯や活動は物質的なものではありません。私たちが物質的な考えで理解しようとしても、主の活動は理解出来るものではありません。しかし、そのような主の並外れた活動を聞くだけでも、束縛された魂は恩恵を得ることが出来ます。主の活動を聞くことは、主と交際することです。主がどのような活動をされたのかただ聞くことによって、私たちは超越な性質を向上させることが出来るのです。束縛された魂は、物語、演劇、小説といった形で他の束縛された魂のことについて聞きたいという性向を生まれながらに持っています。そのように他の人々のことを聞きたいという性向を、私たちは主の遊戯を聞くことに利用すればよいのです。そうすれば、超越的な性質を身につけることが出来るのです。クリシュナの遊戯はただ美しいだけではなく、私たちの心に大きな満足をもたらしてくれるのです。 長い間物質界にいると、私たちのハートには穢れが蓄積されるのですが、主の遊戯を聞く人はその穢れをたちまちに浄化することが出来ます。ハートに蓄積されたどのような穢れも、主の聖なる御名を聞くだけで浄化されると主チャィタンニャもお教え下さいました。自己を悟るためには様々な過程があります。献身奉仕の過程では聞くことが最も重要とされていますが、束縛された魂がその献身奉仕の過程を真剣に受け入れるなら、物質的な穢れは自然に浄化され、そして自分本来の立場を理解することが可能になります。このような物質的な穢れのために私たちは束縛されているのです。そしてその穢れが浄化されるやいなや、主に仕えるという生命体の本来の機能が目覚めるのです。至上主との永遠の関係を育むことによって、私たちは献身者と親しくなることが出来ます。誰もが主の超越的な遊戯を聞くよう努めるべきだ、とマハーラージ・パリクシットは実際的な経験から薦められました。それが本書『クリシュナ』の出版の目的です。そして読者の方々がこの書物を学ばれて、人生の最高目的を達成されることを願って止みません。   (クリシュナ本 1~4) クリシュナよりジョージ ハリスンの言葉 「誰もがクリシュナを探しています。それに気づいていない人もいますが、実際誰もが探しているのです。クリシュナは神です。クリシュナは過去においても未来においても全ての存在の源で、全ての原因の根本原因 。」 この本は世界中で非常に人気があり、英語版は大日本印刷で大規模に印刷されました。 バガヴァッド・ギーター勉強会 ーhttps://harekrishna.jp/2022/11/bhagvadgitastudy.html  クリシュナブック本注文              

  • 放棄した者は、乞食と同じ類でしょうか?彼らは、社会にとって何かの役に立っているのでしょうか?

    あらゆる宗教的伝統において、絶対真理の探究には放棄心を高めていくことが大切であるとされています。しかし、今日の物乞いは怠惰の結果として生じているものであり、放棄生活とは異なるのです。放棄生活とは、怠惰であることではなく、最上の宗教的活動に積極的に従事することなのです。 cīrāṇi kiṁ pathi na santi diśanti bhikṣāṁ、naivāṅghripāḥ para-bhṛtaḥ sarito ‘py aśuṣyanruddhā guhāḥ kim ajito ‘vati nopasannān、kasmād bhajanti kavayo dhana-durmadāndhān (SB 2.2.5) ぼろは道ばたにいくらでも落ちている。生き物を養うために生きる木がもう慈善を施さなく なったと思うか。川が干上がり、喉の渇きをいやす水が飲めなくなったとでも言うのか。山の 洞窟が埋まったのか、いやそれよりも、身をゆだねようとする魂を全能の主が守ってくれなく なったとでも言うのか。ではなぜ博識な聖者たちは、苦労して貯めた富に陶酔している者たち に物乞いしているのか。 要旨解説 放棄階級の生活は、まるで寄生虫のように人に物乞いをしたり、金をせびったりして生きる ために用意されているのではありません。「寄生虫」を辞書で見ると、社会に依存しつつその 社会に貢献しない追従者、とあります。放棄階級は社会のためになることを提供する地位であ り、暮らしを世帯者に頼る生活ではありません。真摯な托鉢僧が世帯者から布施を受けいれる のは、寄付者が明確な恩恵が得られるよう聖者が用意した機会なのです。サナータナ・ダルマ の制度では、托鉢僧に布施を差し出すことは世帯者の義務の一つであり、経典でも、世帯者は 托鉢僧と家族の子どものように接し、乞われなくても食べ物や衣服などを差しだすもの、と述 べられています。ですから偽物の托鉢僧が、誠実な世帯者が持つ慈善の心につけこむことがあ ってはなりません。放棄階級者の最初の義務は、文筆活動をとおして人間社会に貢献し、自己 を悟るための教えを人類に与えることにあります。シュリーラ・サナータナ、シュリーラ・ルーパ、そのほかのヴリンダーヴァナのゴースヴァーミーたちが従っていた放棄生活のなかでも 主要な義務は、ヴリンダーヴァナのセーヴァークンジャ(シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァ ーミーが設置したシュリー・ラーダー・ダーモーダラ寺院、そして現在シュリーラ・ルーパ・ ゴースヴァーミーとシュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーが埋葬されているほんとうのサ マーディ墓碑)で、博識な論議をたがいに交わすことでした。人類すべての恩恵のために、か れらは超越的な重要性を持つ膨大な文献を世に残しました。同じように、進んで放棄階級の生 活を受けいれたアーチャーリャすべては、人間社会が幸せになることが目的であって、他人を 犠牲にして快適かつ無責任に暮らすことはしませんでした。しかし、そのような貢献ができな い者は、食べ物を乞うために世帯者を訪ねるべきではありません。托鉢僧が世帯者にパンを求 める行為は、もっとも高い階級そのものに対する冒涜だからです。シュカデーヴァ・ゴースヴ ァーミーは、生計の問題を解決するためにこの階級を受けいれた者に対してとくに警告してい ます。そのたぐいの托鉢僧がカリ時代にあふれています。意欲的に、あるいはやむをえない事 情で托鉢僧になった人は、至高主が宇宙の全生命体の維持者であることに堅い信念と確信を持 っているはずです。ならば、主への奉仕に全身全霊をこめて身をゆだねるそのような魂を主が 養わないことがあるでしょうか。ふつうの主人なら、召使いが必要としているものを叶えてあ げるはずですから、全能ですべての富を持つ至高主が身をゆだねた魂の生活に必要なものを出 さないことがあるでしょうか。托鉢僧の献愛者は、だれにも乞わずに質素で小さな腰巻きをま とうのが決まりになっています。道路に捨てられているような破れた布を体に巻くだけです。 空腹になれば、くだものを落とす寛大な木のところに行き、喉が渇けば川の水を飲みます。快…

  • 献身的な文学の重要性を説く精神科医。(spiritual doctor describing the importance of devotional literatures.)

    ナラダとヴァイヤサの会話。ナラダとヴァイヤサの会話。 多くのヴェーダ文献を編纂しても、ヴィヤーサ・デーヴァは満足しなかった。 そこで彼は、教祖である “ナラダ・ムニ “にこう指示された。 Srimad bhagvatam 1.5から 第 9 節  ヤタハー ダハルマーダヤシュ チャールタハ  yathä dharmädayaç cärthä  ムニ・ヴァリャーヌキールティターハ  muni-varyänukértitäù  ナ タタハー ヴァースデーヴァッシャ  na tathä väsudevasya  マヒマー ヒ アヌヴァルニタハ  mahimä hy anuvarëitaù 偉大なる聖者よ。あなたは宗教上の活動から4つの原則まで、広範囲に記述してはいるもの の、至高人格者・ヴァースデーヴァの栄光については述べていない。  要旨解説  シュリー・ナーラダからの機敏な診断が、即座に打ちだされました。ヴャーサデーヴァの落 胆の根本原因は、さまざまなプラーナを著してはいるものの、主の栄光について述べることを 意図的に避けていた点にあります。確かに、そして当然ヴャーサデーヴァは主(シュリー・ク リシュナ)の栄光について説明はしていますが、宗教、経済発展、感覚満足、解放など対する 説明に比べると、充分な量ではありません。この4つの原則は、主への献愛奉仕の活動に比べ ればはるかに劣っています。権威ある学者であるシュリー・ヴャーサデーヴァにもこの違いは わかっていたはずです。にもかかわらず、主への献愛奉仕というよりすばらしい活動について 重点を置くことなく、妥当とは言えない物事のために貴重な時間を費やしてしまいました。失 望の原因はここにあります。このことから「主に献愛奉仕をしなければ、心の底から満たされ ることはない」ということがわかります。『バガヴァッド・ギーター』でもこの事実について 明確に述べられています。 宗教を始めとする4つの原則の最後になる解放の境地に到達した人は、純粋な献愛奉仕をす るようになります。これが自⼰の悟り、すなわちブラフマ・ブータ(brahma-bhüta)と呼ば れる段階です(『シュリーマド・バーガヴァタム』第4編・第30章・第20節)。ブラフマ・ブ ータの境地に達した人は心が満たされます。しかしその満足は、崇高な至福の始まりにすぎま せん。相対的なこの物質界で、私たちは中立で平等な心になって前進しなくてはなりません。 この安定した境地を通過したあとに、主への超越的な愛情奉仕に立脚できるようになります。 これが、『バガヴァッド・ギーター』で説かれている人格主神の教えです。結論として、ナー ラダはヴャーサデーヴァに対し、「ブラフマ・ブータの境地を維持し、超越的な悟りをさらに 高めるために、献愛奉仕の道について熱意をこめて繰りかえし説明すべきである」と勧めまし た。そうすることで、かれは深い落胆から解放されるのです。…

  • Rama Navmi 主ラーマの降臨祭

     Rama Navmi 主ラーマチャンドラもその弟たちラクシュマナ、バラタ、シャトルグナも皆、ジーヴァ・タットヴァではなくヴィシュヌ・タットヴァです。至高人格神はたいへん数多くの姿に拡張なさいます。Advaitam acyutam anādim ananta-rūpam。 彼らはひとりであって同一ですが、ヴィシュヌ・タットヴァにはたくさんの姿と化身があります。『ブラフマ・サンヒター』(5-39)では、rāmādi-mūrtiṣu kalā-niyamena tiṣṭhan.と確証されています。主にはラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナのようにたくさんの姿かたちがあり、主の創造のどの部分にも存在する可能性があります。これらのお姿は個々の人格神として永続的かつ永遠に存在し、それはたくさんのロウソクが同じ強さを秘めているのと同じです。ヴィシュヌ・タットヴァであるラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナは皆等しく強力で、神々の祈りに応えてマハーラージャ・ダシャラタの息子となられたのでした。 9-10-3 tasyānucaritaṁ rājann ṛṣibhis tattva-darśibhiḥ śrutaṁ hi varṇitaṁ bhūri tvayā sītā-pater muhuḥ tasya — 至高人格神ラーマチャンドラとその弟たちの; anucaritam — 超越的な活動; rājan — 王(マハーラージャ・パリークシット)よ; ṛṣibhiḥ — 偉大な聖者や聖人によって; tattva-darśibhiḥ —絶対心理を知っている人によって; śrutam — 全員が聞いた; hi — 実に; varṇitam — たいへんすばらしく述べられているので; bhūri — たくさんの; tvayā — あなたによって; sītā-pateḥ — シーター妃の夫である主ラーマチャンドラの; muhuḥ —…

  • バガヴァッドギーター勉強会がアップルポッドキャストでトップポッドキャストとなりました。

     バガヴァッド・ギーター勉強会、Apple Podcastsの宗教・スピリチュアリティ部門でトップポッドキャストに選出 また、youtubeやspotifyでも配信しています。 もっと見る https://harekrishna.jp/2022/11/bhagvadgitastudy.html

  •  主チャイタンニャという人とその教え

      主チャイタンニャが降誕されたのはインドの西ベンガル地方のマヤプール地区にあるナディアという小さな街でした。 それは西暦1486年2月18日の日が落ちて間もなくのことです。満月の夜でしたが、月食のため古くからのしきたりでこの街の人々はバギラティ川(ガンジスの別名)でその夜に沐浴の儀式を行っている最中でした。 父親のジャガンナータ・ミシュラと母シャチ―・デーヴィーはともにシレートという名の街に先祖代々の実家をもつブラーフマナ(バラモン)の家系の出身でした。   主チャイタンニャの存在とその教えはインドにおいても広く知られている訳ではありませんが、その生涯と教えはヴェーダの究極の到達点への導きそのものであり栄光に満ちあふれた至宝の甘露となっています。 主チャイタンニャの真のお姿は、実は至高主クリシュナ自身でありながらご本人のご意思によりその事実は一般大衆には隠されました。ヴェーダの教えでは至高主クリシュナはカリという時代には化身しないとされています。しかし主チャイタンニャがお生まれになったのはカリ時代のことです。ゆえに本来はカリ時代には現れない主ご自身は本当の姿を一般の人々には隠されました。だからこそ、その真実を見抜き語り継ぐ聖者の間ではチャンナ・アヴァターラ(隠れた化身)と呼ばれています。  主チャイタンニャはご自分の存在は隠されましたが、それとは逆にその教えはインド中に広く流布されました。出会う全ての人に主の聖なる御名の唱名を推奨し、それがカリ時代の最も有効な浄化手段(ユガ・ダルマ)であり、ヴェーダで説明されている最高の供犠であると説かれました。ヴェーダでは瞑想、儀式、神像崇拝が供犠として人を浄化し完成へと導く手段と説明されていますが、このカリ時代ではそれらの厳しい供犠で得られる同じ結果が主の聖なる御名を集まって唱えることで得られる神秘を開示されました。カリ時代はヴェーダで示される4つの時代の中で最も堕落した時代であり、偽りと争いが蔓延し、不徳な輩が世界を支配し正直な人間が虐げられる最悪の環境となります。この時代は43万年間続きます。だからその救いの方法も時代に合わせ容易なものとなっているのです。ただ御名を唱え神の意識に目覚めるという方法です。   主チャイタンニャの伝記『Sri Caitanya-Caritamrta』Madhya-Lila6-103には、「カリ時代には、知性ある人々は、ハレー・クリシュナ・マハーマントラを集まって唱えてカリ時代に現れる至高主を崇拝する。その主はいつもクリシュナの栄光を讃えており、黄金の肌色をして、主の化身や側近、献身者に取り囲まれている」とあります。   ※ハレー・クリシュナ・マハーマントラ   हरे कृष्ण हरे कृष्ण , ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ कृष्ण कृष्ण हरे हरे | クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー हरे राम हरे राम ,    ハレー ラーマ ハレー ラーマ राम राम हरे हरे ||   ラーマ ラーマ ハレー ハレー    またヴェーダ哲学の最奥の経典『Srimad Bhagavatam』11-5-32にもこうあります。「カリ時代には、知性ある人々は、絶えず主クリシュナの名を広めるために人前で主の御名を唱えるキールタンを行います。その主導者(主チャイタンニャ)の肌は黒くありませんが主クリシュナ自身です。彼は交際者、従者、武器および内密な仲間たちを同伴します」  『Bhagavad Gita』における主クリシュナの究極的な教えは、誰もが主クリシュナに服従しなさい、というものでした。私に身を委ね服従した魂を私は直接めんどうを見る、救済するということです。主クリシュナはヴィシュヌの様相として、また宇宙を支配する強力な生物(半神)に力を与えることで、間接的には私達を維持して下さっています。しかし、アルジュナがそうしたように主クリシュナに服従したなら、直接の交際者となってその魂と個人的に愛情交換をして下さり、主の住居に住まわせて下さることが『BhagavadGita』や『Srimad Bhagavatam』の中でも説明されています。   主クリシュナは梵天(ブラフマー神)の1日に、つまり86億年に一度地球で『BhagavadGita』を語ります。またその内容は 『ウパニシャッド』の要約の体をなし、抽象的とも言えます。ですから、同じ86億年に一度の周期で主チャイタンニャとして再び地球に現れ、主クリシュナに身を委ねる実践的な方法を教えるのです。主クリシュナご自身が主の仕え人、帰依者となり手本を示されるのです。これが主チャイタンニャに関する内密な真実です。智慧ある者はこの事実を受け入れ、恩恵にあずかるべきです。  主チャイタンニャは言われました。「このカリ時代では隠遁生活、放棄生活をする必要はない。家庭を持ち家でグルの指導の下、毎日主の御名ハレー・クリシュナ・マントラを唱え、『BhagavadGita』や『Srimad Bhagavatam』に書かれている主クリシュナの物語を聞きなさい。そして会う人に私の教えを伝えなさい。それだけであなたの人生は完成する」  主クリシュナの御名はナーマと言い、主そのものです。名前と主ご自身には何の違いもありません。ヴェーダのマントラの持つ浄化力よりもはるかに優れています。ナーマはクリシュナご自身であり、完全に純粋であり、唱える者の過去に犯したカルマを火にくべられた薪のように燃やし尽くします。そして唱える者の心を浄化し、主クリシュナへの本来持っている愛情を甦らせます。肉体は朽ち果てますが、魂は永遠であり、その魂のダルマ(本分)は主クリシュナに仕えることだと主チャイタンニャは説明されました。それが全ヴェーダの結論であると宣言されたのです。この意識を回復しない限り人は、苦しみ、悲しみ、恐れ、疑問を持ち、そのような不運の中で輪廻転生し続けることになるのです。  私たちはこの生涯を、家族・財産・健康への執着という自己中心的なものに使うのではなく、本来の魂の立場へ覚醒するために人生を使うべきなのです。  カリ時代は紀元前3,102年2月17日から始まりました。不徳の者が台頭し権力を持ち支配者になる。徳ある者が少数派となり端に追いやられる。しかしこの不運な時代にも一つだけいいことがある。主の聖なる御名を唱えることで、全てのヨーガの完成が得られる。この幸運を全ての村や街に配りなさい。それが主チャイタンニャのマノーヴィシュタン(崇高な望み)です。    ナロッタマ・ダースは、「主チャイタンニャの御名を世界に広めることにより、ルーパ、サナータナに代表される6人のゴースワミーに仕えることができ、アルジュナが勝利したように必ず成功する」と祝福をくださっています。