Similar Posts

  • | | | | | | | | |

    ヴェーダの教え|シュリー・イーシャ・ウパニシャッド | 案内

    知的な人なら、人間の体は、何百万年ものあいだ輪廻を繰りかえした果てに得たものであることを自覚すべきです。物質界はときに海にたとえられ、人間の体はその海を渡るように作られた頑丈な船にたとえられます。さらにヴェーダ経典やアーチャーリャ(神聖な教師)は熟練した船長に、人間の体のいろいろな機能は、船が無事に目的地に着くのを助ける順風にたとえられます。このようなすばらしい便宜が与えられているのに、自己の悟りのために人生を充分に利用しない人は、ātma–hā(アートマ・ハー・魂の殺害者)と見なされます。「魂の殺害者は、無知の闇のもっとも深い部分に落とされ、永遠の苦しみを嘗める」と『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』ははっきり警告しています。 現代社会では、少年でさえ自分を完璧だと考え、年長者に敬意を払おうともしません。大学で教えられている誤った教育のために世界中の青年たちは、年長の人々の頭痛の種になっています。そのため、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、無知の修養は真の知識の修養とは異なることを強く警告しています。 『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、一時的な恩恵しか与えられず、自らも自由ではない半神を崇拝して、困難を一時的に解決させようとすべきではない、と諭しています。すべてを魅了し、完璧な自由を授け、私たちをふるさと・神のもとへ導いて物質界から解放してくれる絶対人格主神、クリシュナを崇拝しなくてはなりません。 『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、生存競争に打ち勝つための片手落ちの計画は立てないよう私たちに教えています。だれもが生き抜くために悪戦苦闘していますが、物質自然の法則はじつに厳格であって、だれであろうとその自然の法則を超えることは許されません。永遠の命を手にいれるためには、神のもとへ帰る準備をしなくてはならないのです。 哲学者は労働者よりも優れ、神秘家はその哲学者よりもさらに優れていますが、あらゆる神秘的ヨーギーのうちでもバクティ・ヨーガ(bhakti-yoga)を実行し、つねに主へ奉仕する人物がもっとも優れているということになります。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』 『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』 『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、私たちをこの完成の境地へ導いています。 1秒も無駄にすることなく、神聖 な活動ができるように自分の生活を設計すべきです。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』は、私たちをそのような神聖な生活に導いてくれます。

  • | | | | | | |

    人は非常に謙虚でなければならない

    ですから、これらの思い上がった人々はクリシュナを理解することはできません。人は非常に謙虚にならなければなりません。キリストもまた、『神の国は謙虚で柔和な者たちのためにある』と言われています。そのことは実は、、、そしてクリシュナもまた言いました、sarva-dharmān parityajya mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja (BG 18.66)。「はい、私は何も持っていません、取るに足らない者です。」これこそが、謙虚さの始まりです。Bahūnāṁ janmanām ante jñānavān mām (BG 7.19)。グル、クリシュナの前では常に取るに足らないものであり続けること、これが真の知識です。そして、それは利益なのです。誰かが「私は私のグル以上、クリシュナ以上になった」と考えるなら、その人はお終いです。ですから、人はとても謙虚で柔和になるべきです。制度上、自分がbrahmacārī, gṛhastha, vānaprastha, sannyāsaいづれに位置しているかは問題ではありません。たとえサンニャーサの階級を得た人であっても、彼は常に謙虚でいるべきです。 ですから、私たちは決して「自分はとても偉大な人物になった」と考えるべきではありません。それが私のグル・マハーラージャの教えでした。baḍa vaiṣṇavaとは「私はとても偉大なヴァイシュナヴァです。誰もが来て私の命令に従わなければなりません。」これこそが非難された立場ですね。本当の立場とは、人は非常に謙虚で柔和でなければならないということです。Jñāne prayāsam udapāsya namanta eva. Namantaとは謙虚という意味です。人は… Namanta eva san-mukhari..純粋な献愛者たちから学ぶ心構えがなければなりません。純粋な献愛者たちからの話を非常に待ち望むべきです。それと同じこと、anyābhilāṣitā-śūnyaṁ。クリシュナに仕えること以外に物質界では何の望みも持たない人こそ、純粋な献身者です。ですから、謙虚にそのような人物からの話を聞くのを切望すべきです。 (Srila Prabhupada Lecture, Mayapur, February 10, 1976)

  • | | | | | | | | | | | |

    Oṁ namo bhagavate vāsudevāyaの解説

    VāsudevāyaとはVasudevaの息子であるKṛṣṇaを意味します。Vāsudevāya、Kṛṣṇaの御名を唱えることで人は慈善、禁欲生活と苦行の全ての良い結果を達成することが出来ます。従ってこのマントラoṁ namo bhagavate vāsudevāyaを唱えることによってŚrīmad-Bhāgavatamの著者又は語り手又は読者は全ての喜びの源である至高主Kṛṣṇaに尊敬の礼を捧げるということを理解されています。 このoṁとは主に向かって言を呼びかけることを意味します。全てのVedaマントラで呼んでいます。私たちこのmahā-mantraであるHare Kṛṣṇaも呼びかけることです。Hare,Hare,主のエネルギーであるHarāを呼びかけています。エネルギーはHarā, Rādhā, Sītāです。女性を呼びかける時このようです。Hare, Late, Sīte, Rādhe。従ってHareとはまず第一に最初にエネルギーを呼びかけることを意味します。非人格主義者たちはこのことを知りません、まず第一に最初にKṛṣṇaのエネルギーを呼びかけること。私たちGauḍīya-VaiṣṇavaはKṛṣṇa一人だけを崇拝しているのではありませんekala-vāsudeva、いいえ。私たちはKṛṣṇaのエネルギーとともにKṛṣṇaを崇拝しなければなりません。丁度Kṛṣṇārjunaのように、KṛṣṇaとArjuna。Arjunaもエネルギーです。Rādhā-Kṛṣṇa,クリシュナの内的エネルギーと中間エネルギーです。 KṛṣṇaとはKṛṣṇaのエネルギーと共に意味します。Oṁ namo bhagavate vāsudevāya.このbhagavateとはエネルギーに満たされいることを意味します。bhagavānについては何度か説明してきました。Bhagaは豊かさ、vānは所有する者という意味です。Bhagavān. これがBhagavānという言葉の意味です。ですから、このBhagavānという言葉は、bhagavateと呼ばれます。この言葉は bhagavat、bhagavat-śabdaです。 ですから、bhagavateはこう言うのです、oṁ namo bhagavate vāsudevāya.Vāsudevāya, これは…、śabdaの第四の形、音のバイブレーションの形です。第四の形。ちょうどkṛṣṇāyaのようなものです。私が何かを捧げるとき、kṛṣṇāya, viṣṇave. 同じように、bhagavate, vāsudevāya. つまり、Śrīmad-BhāgavatamとはKṛṣṇaのことです。それ以外はありえません。これがkṛṣṇa-kathāです。Bhagavad-gītāもまた、kṛṇa-kathāです。Kathāは言葉を意味します。ですから、Kṛṣṇaによって語られるKṛṣṇaの言葉、それがBhagavad-gītāです。Bhagavad-gītāについて語られた言葉、それがŚrīmad-Bhāgavatamです。あるいは、Kṛṣṇaの献愛者について語られた言葉がbhāgavataです。bhāgavataには2種類あります。ひとつはこの本bhāgavataであり、もうひとつは献愛者です。彼もまたbhāgavataです。Caitanya Mahāprabhuは、bhāgavata para giya bhāgavata sthāneを勧めています:「あなたは bhāgavataのところに行って、bhāgavataである人からŚrīmad-Bhāgavatamを読みなさい。」そうでなければ、あなたは誤解するでしょう。Bhāgavata para giya bhāgavata sthāne. 引用:Śrīmad-Bhāgavatam 2.1.1

  • | | | | |

    私を受け入れてください

    ラーダ・ヴィリンダーヴァン・チャンドラに頭を下げるシュリーラ・プラブパーダ、1972年 これは簡単な方法です。あなたがしなければならないのは、信仰をもってクリシュナの前にひれ伏してこう言うことだけです。『私の主クリシュナ様、私はとても長い間、多くの生涯、あなたのことを忘れていました。今、私は意識を取り戻しました。どうかお願いします。私を受け入れて下さい。』それだけです。ただこのテクニックを学び、主に真剣に身を委ねるだけで、その道はすぐに開かれます。 自己実現の科学、第 7 章

  • | | | | | |

    神の定義 | 自己を悟るための科学

    すべてのヴェーダを編纂したヴャーサデーヴァの父である大聖者パラーシャラ・ムニは、神の定義について次のように語っています。 aiśvaryasya samagrasyavīryasya yaśasaḥ śriyaḥjñāna-vairāgyayoś caivaṣaṇṇāṁ bhaga itīṅganā                                     (『ヴィシュヌ・プラーナ』第6編・第5章・第 47 節) このように、パラーシャラ・ムニの定義によれば、バガヴァーン・最高人格主神は、6つの富――完全な力、名声、財富、知識、美しさ、放棄心――をそなえた方です。        バガヴァーン・最高人格主神はすべての富を持つ方です。金持ちはいくらでもいますが、すべての財産は私のものだ、といいきれる人はいません。また、私より裕福な人間はこの世にいない、とも言えません。ところが『シュリーマド・バーガヴァタム』を読むと、クリシュナは地球にいたころ、16,108 人の妃と結婚していたこと、そのすべての妃が、宝石できらびやかに飾られた大理石の宮殿に住んでいたことがわかります。それぞれの部屋は象⽛や⻩金でできた家具がならべられ、どこを見まわしてもすばらしい富にあふれていました。そのような描写が『シュリーマド・バーガヴァタム』に鮮やかに述べられています。歴史を見ても、16,108 人の妻と 16,108 の宮殿の所有者だった人間はひとりもいません。さらにクリシュナは、毎日妃を替えていたわけではありません。同時に、すべての宮殿に住んでいました。16,108 の姿にみずからを分身させていたのです。とても俗人にできることではありませんが、神にとってはなんでもないことです。神は無限なる方ですから、みずからを無限の姿に拡張します。それができなければ「無限」という言葉の意味がありません。神は全能者です。1万6千の妃はおろか、1億6千万の妃さえも苦もなく養えます。さもなければ「全能者」という言葉は意味をなしません。     神にはそのような魅力的な様相があります。この世界でも、裕福な人はとても魅力的に 見えます。たとえばアメリカのロックフェラーやフォードは、膨大な財産を持っているか らとても魅力的に見えます。世界中の全財産を持っているわけでもないのに、それほど魅 力的に見えるのです。では、世界中の財富をすべて持つ神が、どれほど魅力的か想像さえできません。        またクリシュナは、生まれた瞬間から無限の力をそなえています。まだ生後3カ月のとき、主を殺しにきた魔女プータナーは逆に主に殺されました。それが神です。神は最初から神。瞑想や神秘的力で神になったのではありません。クリシュナはそのような神ではありません。生まれた瞬間から神なのです。        主クリシュナは無限の名声を持っています。もちろん献愛者は主についてよく知り、主の御名を唱えていますが、献愛者ではなくても『バガヴァッド・ギーター』の名声をよく 知っている人は世界中にたくさんいます。世界中のすべての哲学者、心理学者、宗教家が 『バガヴァッド・ギーター』を読んでいます。私たち献愛者も『バガヴァッド・ギーター・あるがままの詩』をたくさん販売しています。売っている商品が嘘偽りのない純金だから です。『バガヴァッド・ギーター』はたくさん訳されていますが、どれも純粋ではありませ ん。私たちの『バガヴァッド・ギーター』はよく売れています。ありのままに説明してい るからです。『バガヴァッド・ギーター』の名声はクリシュナの名声でもあります。 …

  • | | | | | | | | | | | | | | | | |

    Śrī Śrī Gurv-aṣṭaka | シュリー シュリー グルヴァシュタカ

    作詞:ヴィシュヴァナタ・チャクラヴァルティ・タクーラ (1)サムサーラ ダーヴァーナラ リーダ ロカ saḿsāra-dāvānala-līḍha-loka- トゥラーナーヤ カールニャ ガナーガナトヴァンtrāṇāya kāruṇya-ghanāghanatvam プラープタシャ カリャーナ グナールナヴァシャprāptasya kalyāṇa-guṇārṇavasya ヴァンデ グロー シュリー チャラナーラヴィンダンvande guroḥ śrī-caraṇāravindam ​精神指導者は、慈悲の海から恩恵を授かっています。雲が雨を降らせて山火事を消すように、精神指導者は物質的存在という燃え盛る炎を消すことによって、物質的苦悩にあえぐ世界を救ってくださるのです。吉兆な質に満たされた海ともいうべき、そのような精神指導者の蓮華の御足に、私は尊敬の礼を捧げます。 (2)マハープラボー キールタナ ヌリティヤ ギータmahāprabhoḥ kīrtana-nṛtya-gīta- ヴァデートゥラ マーデャン マナソ ラセーナvāditra-mādyan-manaso rasena ローマーンチャ カンパーシュリ タランガ バージョーromāñca -kampāśru-tarańga-bhājo ヴァンデ グローウ シュリー チャラナーラヴィンダンvande guroḥ śrī-caraṇāravindam ​聖なる御名を唱え、無我夢中で踊り歌い、楽器を奏でながら精神指導者はいつも主チャイタニヤ・マハープラブのサンキールタン運動によって、喜びに満ち溢れていらっしゃいます。師は心の中で純粋な献愛という法悦を味わっておられるので、時には髪の毛が逆立ち、体が震えるのを感じ、涙が波のようにとめどなく流れます。そのような精神指導者の蓮華の御足に、私は尊敬の礼を捧げます。 (3)シュリー ヴィグラハーラーダナ ニティヤ ナーナーśrī-vigrahārādhana-nitya-nānā- シュリンガーラ タン マンディラ マールジャナーダウśṛńgāra-tan-mandira-mārjanādau ユクタシャ バクターンシュ チャ ニユンジャト ピyuktasya bhaktāḿś ca niyuñjato ‘pi ヴァンデ グロウ シュリー チャラナーラヴィンダンvande guroḥ śrī-caraṇāravindam ​精神指導者はいつも寺院でシュリー・シュリー・ラーダークリシュナの崇拝をされ、彼の弟子たちにもそのような崇拝を指導なさります。弟子たちは美しい服と宝石で神像を飾り、寺院を清掃し、その他様々な奉仕を主に捧げます。そのような精神指導者の蓮華の御足に、私は尊敬の礼を捧げます。 (4)チャトゥル ヴィダ シュリー バガヴァッ プラサーダcatur-vidha-śrī-bhagavat-prasāda- スヴァードゥヴァンナ トゥリプターン ハリ バクタ サンガーンsvādv-anna-tṛptān hari-bhakta-sańghān クリトゥヴァイヴァ トゥリプティン バジャタ サダイヴァkṛtvaiva tṛptiḿ bhajataḥ sadaiva  ヴァンデ グロウ シュリー チャラナーラヴィンダン vande guroḥ śrī-caraṇāravindam ​精神指導者はいつもクリシュナに4種類の美味しい食べ物(舐めたり、噛んだり、飲んだり、吸ったりできるもの)を捧げ、弟子たちがバガヴァッド・プラサーダムを食べて満足しているのを見て、ご自分も満足なさいます。そのような精神指導者の蓮華の御足に、私は尊敬の礼を捧げます。 (5) シュリー ラーディカー マーダヴァヨラ パーラ śrī-rādhikā-mādhavayor apāra-   マードゥリャ リーラ グナ ルーパ ナーンナーンmādhurya-līlā guṇa-rūpa-nāmnām  プラティ クシャナースヴァーダナ ロールパシャprati-kṣaṇāsvādana-lolupasya ヴァンデ グロウ シュリー チャラナーラヴィンダンvande guroḥ śrī-caraṇāravindam ​精神指導者はいつも熱意をもってラーディカとマーダヴァの果てしない愛の戯れや、お二人の質、御名、お姿について耳を傾けたり唱えたりなさり、それらを毎瞬間味わおうとなさっています。そのような精神指導者の蓮華の御足に、私は尊敬の礼を捧げます。 (6) ニクンジャ ユーノ ラティ ケーリ シッディヤイnikuñja-yūno…